延原時行歌集「命輝く」(第2109回)(ベランダのフジの新芽とお隣の小学校の花たち)

                  

        延原時行歌集「命輝く」(第2109回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(208−6)
妻ぽつりの歌、歌こそはの歌、復活歓喜の歌、ひらけ宇宙の歌、箴言第十条の歌、天が下時や在りの歌、嬉しもの歌、はての歌、箴言第十一条の歌、このところの歌、今朝の歌、変貌論の時代の歌、頭下がりぬの歌三首――復活省察物語の講評に就きて、驚きぬの歌、笑みと雪の歌、所得しの歌、新文明の調べの歌、一つ心の歌、主友なるの幸の歌。(2015年2月21〜28日)

    2月26日
            驚きぬの歌二首

   驚きぬ新たにぞ我見へ始む友達づくり復活助走と(備考:これ見へて中巻第一章や、「友達づくりの神学――復活への助走」となるなり。「復活の省察」から逆照射されて、所謂社会形成・教会形成(わが概念では「友達づくり」)「復活への助走」と成れり。心に平安横溢す)

   驚きぬ「ホ氏と西田」や上昇す佛基哲学忘るなとぞや
(備考:旧著『ホワイトヘッドと西田哲学の<あいだ>――仏教的キリスト教哲学の構想』京都・法蔵館、2001年、上昇は久々の事なり。嬉れしや)

       ♯               ♯

上の「2月26日」の歌は、めずらしく二首だけ詠われていますので、今朝はすこし欲張って「今日の歌」と共に「昨日の歌」の中から特別に大切な歌を加えて収めさせていただきます。

        〇(4月12日)活写の歌六

   我が友の誠懇情溢るるの御返書にあり「あなたに」活写(備考:敬和学園大学名誉教授浅野幸穂先生より拙著『あなたにいちばん近い御方は誰ですかーー妻と学ぶ「ラザロとイエスの物語」』(東京・日本キリスト教団出版局、2011年)の書評御芳書4月2日付拝受、感謝無尽も!:「2015・04・02 延原時行先生  拝啓 先生にはめぐってきた春の大気のなか、多方面なご活躍に勤しんでいらっしゃることでしょう。
 小生の場合は、長いこと会計年度の刻みで仕事をしていた習性で、春の訪れは何時も「巨歩」という感じで近づいてきます。ところで今年は、とりわけきびしい局面にあります。2月に頂戴いたしましたご著書『あなたにいちばん近い御方は誰ですかーー妻と学ぶ「ラザロとイエスの物語」』は、お彼岸はおろか、年度が替っても、きちんと咀嚼したとは申せません。通読という点ではずいぶん前に終わって、読み返しもしておりますが、いまだ消化不良です。原因が小生の素養のなさに在ることは当然ですが、最近は加齢による知力、体力、したがって意力の衰えの要因が大です。第一、頭が思うように動いてくれません。疲労が肩や腰、さらに頭脳に重く感じられ、忍耐強くきちんとした文章が書けそうにありません。今できることとしては、ご著書で中心に置かれている、第2部「わが妻と学ぶ「ラザロとイエスの物語」――ノーちゃんの奇跡的治癒物語」についての感想を申し上げることだけです。
 これは御奥様信子様の不慮の重大事故以来の、ご夫妻一体となっての、信子様の生死を賭した闘病・看病過程の実録が基にされております。第2部の重みは、単に分量として優に著書の半ばを超えるというばかりでなく、またご家族の運命に関わるということだけでもないでしょう。先生にとっては、同志社大学学生時代以来の半世紀にも及ぶ、神学における「説教哲学」志向(伝統的なイエスの事跡(歴史)に基づく説教に加えて、宇宙の様々な事象との全体的な関係性の中でその歴史的事跡についての思索を拡げるという問題提起)のなかで、これと改めて正面から向き合って徹底した追究を繰り広げる機会と捉えて、確信を得る重要な契機となるものでした。
 小生にとりましても、『復活の省察(上)』で読ませていただいた、県立リューマチセンター〜豊浦病院入院期に先立つ、事故直後の苦難の奥底の時期の信子様の面影はぜひ伺いたいところでした。今回それがかなって知ることができた、新発田病院におけるご病状の経過は、ご夫妻を中心に、医師・看護スタッフ、ご姉妹などご親族、先生の大学・教会・学会などの交友関係者、隣人など地域住民が信子様に向けた集中的なバックアップは誠に感動的でした。その中で先生は、多忙な本務の中でも、指圧を含め、病室での細かいお世話を一手でなさいました。とりわけ患者を優しく激励する語りかけが止むことはありませんでした。
 こうした営みが休みなく続けられて、入院当初、脳挫傷による生存率6%とし、「尊厳死か、植物人間か」の二者択一を迫った病院側に対し、断固手術を譲らなかった結果はめきめきと病状改善の実を示し、ハードルは次々と突破されてゆきます。ただ、これをもって、「奇跡的」という形容詞的な規定はともかく、受動的な意味でであれば「神の恩寵」に帰することが正しいのか、非宗教的人間の小生などは迷ってしまします。とはいえ、隠れて人間存在の根底にいる大いなる存在に信仰を捧げられる信仰者と自分との精神力のへだたりは自分なりに感じることはできます。
 小生は、病室の中で展開された、患者信子様と先生、双生児の妹順子様ら関係者とのジョークや関西漫才もどきの軽妙なやりとりを思い浮かべます。先生・信子様は自らの療養生活に、「孤独死」のラザロに復活の意味を重ねて、彼と同様、主イエス・キリストがたとえ不在であっても「偕にいたもう」ことを信じ、死が決してすべての終わりではないことを信じておられます。こうして、お二人の言行を焦点として、病室は文字通り「いのち輝く」光彩陸離たる場となっておりました。奇跡を超自然的なものとして期待するのでなく、「いのち」の回復を求めて、最善の療養生活を送るけれども、ただ死に対して戦々恐々としているのではない。人間存在の根底に潜む、いちばん近い御方(隠れたる者)、イエス・キリストを信じて祈る、その心的態度が余裕ある、合理的な療養生活の態度となり、身体の回復力を高めているものと考えられるのです。
 至って通俗的な想像になってしまいますが、絶えず迷いや不安に苛まれて日を送る俗物である小生自身を省みますと、やはり「道心堅固」な信仰者との精神力の隔たりの大きさを思わざるを得ません。そこの導いたのは、「神様が働いておられるからだ」という、信徒の皆様の素朴だが、人間存在の根底で祈る、近くに潜む者、イエス・キリストに対するたしかな信仰心の有無なのでしょう。
 最後に、巻末の「瞑想」の末尾において、高齢化社会を見据えて展開されている教会への提案、「キリスト称名」から「ふるさとづくり」へ、を多大な関心を持って拝読しました。
 回りくどい悪文で見当違いばかり申し上げましたが、危機の時期における先生ご夫妻の躍動のお姿を拝見し、小生には未知の世界の勉強をさせていただいたことに心から感謝申し上げます。先生・信子様ご夫妻こそ「永遠のいのち」に連なる方々です。 敬具 浅野幸穂」)

   この活写我にとりてはそのままが妻感謝のぞ入来ぞ

   御文をぞ読みゆくほどに仄々と彼の日の事や今や現前

   有難き御返書誠有難き友の文にぞ我妻入来

   入来や間主体的いのちなり友語りつつ妻や語るも

   友語り妻語る間や貫きて甦りの主語り給ふよ

        〇(4月13日)もしもぞやの歌十首

   もしもぞや絶後笑み増し往きし妻誠天父に往きしならさて

   父子ひらけ妻を包みて霊体を授けしのちや御声ぞあらむ

   信子汝我が羊飼へいざや行け本作りなす時行の許

   復活の信無き基教変貌に至らせんとて妹背励めや

   一書はぞ復活省察弘めんと天父御心托されたるや

   もしもぞや誠御心かくなれば一書上昇これからが華

   新信仰単なる望みうち捨てて真実望み復活に置け

   かくてぞや復活省察命の書読みて人方変貌の秋(とき)

   裏を見せ表を見せて散る紅葉暖雪降りて御霊溢るや

   御霊はぞ誤訳教をぞ打ち砕き悔ひし心の新基教生まむ

ベランダの旧いフジの樹に今年も柔らかな新芽が芽吹いてきました。高取山をバックに撮りました。

昨日は地方選挙でしたが、隣りの小学校が投票所になっていて、投票のあとに、校内の花壇などをぶらり・・・。

チョウチョのとまった菜の花やチューリップ、エンドウの花など撮りました。