延原時行歌集「命輝く」(第2100回)(神戸諏訪山登山:満開の桜とウグイス)

                  

       延原時行歌集「命輝く」(第20100回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(207−7)
箴言二、三条の歌、一つ心の歌、祝福の日の歌、変貌論の歌、脱稿の歌、生涯の歌、箴言第四条の歌、この道の歌、箴言第五条の歌、箴言第六条の歌、宇宙知るの歌、箴言第九条の歌、皆の歌、幸の歌、我ら主と共の歌、歴史的変貌と笑み(あるいは形而上学的変貌)の歌、我が歌やの歌、説教大全企画聴くの歌、この定めはぞの歌、我や知るの歌、妻飛翔の歌、我らが書の歌、底の底の歌、その時の歌、結局やの歌、我悟るの歌、沈思の歌(2015年2月11〜20日)。

    2月17日
               幸の歌四首

   しみじみと妻の歩みを辿り来て何処にも見ゆ実にも佳き日や

   佳き日とは今生御国一途なる道往きをこそ言ひにけるにや
(備考:この道往きをホ氏言ひし:”We perish and are immortal.” [PR, 351, 82] この道往きをハイデガー「世界内存在」「死への存在」により採らぬなり。恩師「深き低みより下に下ることはしない」として、この道往きを採らぬなり)

   我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す
   (備考:復唱)

   佳き日をば祝さるるこそほかならぬ深き淵より甦る幸

           我ら主と共の歌十四首

   我妻や絶後笑み増す姿をぞ佛賢者方賛嘆さるる

   これ程に奇しきことなし今の世に欧州にてや回基衝突

   何故に回基衝突在り得るや自己中の主や挑戦さるるも

   「これらのぞ人為すよりも我愛せ」かく求むるや誤訳教そも(備考:ヨハネ福音書21章15節の誤訳:「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。日本聖書協会訳、新共同訳も同様なり)

   誤訳言ふ我愛するかこれらのぞ人士みずから為すや以上に

   誤訳にや復活の主ぞ含まれずただ地上のぞ覇権の主あり

   恐らくは回教主をぞ嫌ひたり宗教文化戦さ始むや

   総てはぞ誤訳よりぞや正解は「汝これら物より我愛するや」

   これら物汝が旧来の生業を捨てて岸辺の我愛するや

   我妻や絶後笑み増す佛賢者賛嘆さるる麗しきかな

   事柄や岸辺の主をぞ拝すこと地上覇権に関はる非ず

   ホ氏は言ふ基回教はいずれもや覇権の主とぞ我が主混同(備考:重要テキストこれなり:”The notion of God as the ‘unmoved mover’ is derived from Aristotle, at least so far as Western thought is concerned. The notion of Gos as ‘eminently real’ is a favourite doctrine of Christian theology. The combination of the two into the doctrine of an aboriginal, eminently real, tanscendent creator, at whose fiat the world came into being, and whose imposed will it obeys, is the fallacy which has infused tragedy into the histories of Christianity and Mohametanism.” [PR, 342])

   基教先ず誤訳訂正なしてこそ復活の《我》愛し奉らむ

   その時や戦止みてや資源もや収奪去りて我ら主と共

    歴史的変貌と笑み(あるいは形而上学的変貌)の歌十首

   今や成る歴史的なる変貌やこれ近代基教に挑めるものぞ

   日ノ本の近代超克言ふものや回教暴発いどみしは是(備考:佐藤優『危機を克服する教養〜知的実践講義「歴史とは何か」〜』[角川書店、2015年]190−192,212−226頁、参照)

   元々や近代基教復活の誤訳よりして出づる亜流ぞ

   歴史的変貌元やハイデガー存在論にありと我見る(備考:M.ハイデガー高田珠樹訳『アリストテレス現象学的解釈』[平凡社、2998年]32−33頁、参照。これ死の存在論にして、それ超ゆる形而上学非ずとまで言ふ。ハイデガー言ふ「歴史的思惟」とは、復活信条変貌させんと成す頽落現象なりき。これ「負の変貌論」なりき)

   これ程に復活視点挑めるは又となきやと思はるるなり

   恩師のぞ深き低みのその下ぞある筈ぞ無き言ふも同類(備考:滝沢克己『純粋神人学序説』[創言社、1988年」274頁、参照。恩師言ふ「深き低み」は歴史的世界の最低限なる故、それ破る時、すなわち、人滅する時、人佑くこと不可なり。我信ずるは、深き低みのその底に、すなわち底の底に、開示するは「滅して不滅」の父子ひらけなり。これ形而上学的変貌なり)

   歴史的変貌をぞ誠にや形而上学変貌ぞ解く
   (備考:これ我が解なり)

   イスラムに対話路線で臨むラ師近代基教超へたるやこそ
(備考:「今やわれわれに分かってきたことは、世界を人間の住めない場にするために人類は必ずしも大戦争を必要としないということである。いかなる場にも偏在しうるテロの無名の力は、すべての人々の日常生活の場にまで襲いかかるだけの強さを持っている。また、それとは別に、こうした犯罪的な分子が、巨大な破壊の可能性を手に入れ、それによって政治秩序の外で、世界をカオスに陥れるのではないかという恐れがある。(中略)ショッキングなのは、テロは少なくとも部分的には自らを道徳的に正当化していることである。ビン・ラディンのメッセージは、テロを、力なき抑圧された諸民族からの強者の傲慢に対する答えである、また、強者の高慢と、神を冒涜する思い上がり、そして残虐に対する正義の刑罰である、としている。」(ユルゲン・ハーバーマス/ヨーゼフ・ラッツィンガー三島憲一訳]『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』岩波書店、2007年、34頁) 佐藤前掲書、191頁、参照。「アルカーイダというのは結構力があるぞ。道徳的な正当性を主張していて、一部の支持を得ている。だから封じ込めないといけない。ではどのように封じ込めるのか。アメリカのブッシュがやったような力による封じ込めは最低だ。封じ込めは対話によって行わないといけないと、ラッツィンガーは言っています。イスラームの文化世界に存在する緊張関係に目を向けると、一方の極にはビン・ラーディンのような狂信的絶対主義者がいる。他方の極には寛容な合理性に対してオープンな態度をとっている穏健派もいる。その幅は極めて広いということで、ラッツィンガー杯文化対話を掲げる。しかし真の目的はたいわではないのですね。まずアルカーイダ、つまりイスラーム過激派を封じ込める。過激派を封じ込めた後には、イスラーム全体を封じ込める。二段階戦略です。だからまずは対話によってイスラーム穏健派を味方につけよう。こういう戦略だったのです。」 佐藤前掲書、191-192頁、参照)

   ラ師対話「我が羊飼へ」御声をば聴ける業にしありけるやそも

   かくしてや歴史的場にハイデガー超ゆる智慧今出でにけり

   我妻や絶後笑み増し往くやしも深き低みの底ぞ飛翔す

   我妻や笑み増し飛翔すればこそ岸辺の主共天父御許に

   笑み一つ魅せるだけでやこの宇宙ひらけにひらく麗しき哉

           我が歌やの歌一首

   我が歌や妻笑み増しを糧にして短歌神学げに展べんとす

        ♯              ♯

今朝も、上の「2月17日」の豊かな「歌・歌・歌」に加えて「今日の歌」より、次の三首を収めます。

           〇(3月3日)妻ぽつりの歌三首

   妻ぽつり父さん看るのん誰かなあ言ひ居りし折全き安心(備考:2014年2月26日のことなりき。その時はその時じゃ、何とかなるで、と我。うん)

   この人に死の不安なぞかけらなし仕合せ感謝口衝きて出ず
   (備考:思へば不思議なりけり)

   我妻や絶後笑み増し自ずから溢れ出でしや皆悦びて
(備考:直前の妹背会話:最高に仕合せや、父さん、一生有難うね。何でや。皆やって呉れる)

昨日は暖かな日和に誘われて、孫たちと諏訪山に登りました。ことし初めて見事なウグイスの鳴き声に出逢い、聞き惚れてしまいました。

諏訪山の金星台からヴィーナスブリッジを経由し、燈籠茶屋から山手大学へ・・・・。

満開の桜は最高!! 今日から暫く曇天が続くようです。新年度・新学期が始まります!