延原時行歌集「命輝く」(第2091回)(お隣の小学校に咲く桜?とスイセン)

                  

       延原時行歌集「命輝く」(第2091回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(206−8)
理解命歓びの歌、我昔と此度の歌、寒中いざいざの歌、皆やる・入来の歌、本作り奇しきの歌、ノーちゃんの歌、後藤さんの歌、ジュンク堂巡りの歌、ふとや我の歌、愛入来の歌、変貌何処への歌、燦々の歌、笑みこそはの歌、復活誤訳私訳の歌、信頼の歌、天来のマナの歌、それだけの事の歌、言の葉いのちの歌、原点破るの歌、挺身嬉しの歌、この天地の歌、御名崇むことの歌、逆転の歌、華の歌、祈り道の歌、復活省察務めの歌、ああ我やの歌、箴言第七条の歌、昨日もの歌。(2015年2月1日〜10日)

    2月8日
           御名崇むことの歌十五首

   主イエスをば語りゆかんとするならば三極構造心すべしや

   主イエスはぞ太初栄を自覚せる御方にして天父に祈る(備考:ヨハネ福音書17章5節、熟読参照。一の面「太初栄」、滝沢の言ふ「原事実」「神人の第一義の接触」、二の面「自覚」「第二義の接触」なるも、滝沢の注目せざる、三の面「天父に祈る永遠の祈祷者、その受肉」此処に在り)

   前半は史的イエスの範疇ぞ後半されど父子ひらけなり

   主の祈り我が太初のぞ栄をば華やがしめよ我父よとぞ
   (備考:即ち『ヨハネ17・5』主の祈りの原型なり)

   主の祈り十字架上にエリエリ(わが神、わが神)と詩編引用(22・1)辞世とさるる(備考:マルコ福音書15章34節、マタイ福音書27章46節、熟読参照:「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」辞世の歌ならば、イエスの前々から準備されし、公的行為なり。そのリハーサルが『ヨハネ17・5』なり。これが『主の祈り』第一祷に移行せるものと我考ふなり)

   これを父聴き給ひてや高く挙げ一切の名にまさる名賜ふ
   (備考:これ復活なり:ピりピ書2章9節、熟読参照)

   これ主の名「キュリオス」にして父に依る命名御業成就したれり
   (備考:Name=Naming)

   エスースクリストスああイマヌエル称へて栄天父帰するや
   (備考:ピりピ書2章11節、熟読参照)

   かくしてぞ主とはイエスの名にしてや父命名の御業なれるよ

   願はくば御名崇めさせ給へとぞ主の祈りあり御名(Name)や命名(Naming)   (備考:マタイ福音書6章9節、熟読参照)

   御名とはや御子の名にして父命名全プロセスを表示せるなり

   而してや全プロセスは御子のぞや甦りなり誠尊し

   御名崇むとは何あらむ甦り称へ極る父子讃美なり

   我が歌や基督教の起源のぞ解明歌なり称へ歌なり
(備考:近く英文拙稿"Hallowed Be Your Naming: Toward a Process Theological Reinterpreatation of the Lord's Prayer"を我執筆の予定なり)

   我妻や絶後笑み増し不思議やも御名崇めては往きにし姿

        ♯              ♯

上の「2月8日」の歌に加えて、延原さんの新たな驚きの省察の歌を収めます。「備考」を手引きに、二読三読・・・・。延原先生の「短歌神学」は、私たちの「朝の学び」に最適です。「新しい聖書入門」でもあります。

        〇(3月25日)絶対自者即絶対他者の歌六

   主イエスはぞ父の御姿見てや言ふ父の如くに至誠なれやと
   (備考:マタイ5・48)

   かくの如主イエス絶対他者成るもエロイエロイと叫ぶや自者ぞ   (備考:マルコ15・34)

   絶対の自者なる主イエス我にとり「深き我」なり彼「我」叫ぶ(備考:「何ぞ《我》を?」と。拙著『無者のための福音ーープロテスタント原理の再吟味を媒介に』福岡・創言社、1990年、1999年、第二章「何ぞ我を?」参照)

   奇しき人主イエス絶対他者にして絶対自者ぞ矛盾相即(備考:これを「真に神にして真に人」《vere deus, vere homo》とは言ふなり)

   我妻や絶後笑み増し往きし時絶対自者ぞ底にありたり

   底からぞ笑み増さざるを得ぬや幸主イエスの底ぞ太初栄光   (備考:ヨハネ17・5、熟読参照)


お隣の小学校では。昨日は晴れの卒業式でした。今日は終業式です。次の写真は、学校で咲いていた桜の花(でしょうか?)と珍しいスイセンの花です。