延原時行歌集「命輝く」(第2089回)(私たちの住宅の花たち)

                 

         延原時行歌集「命輝く」(2089回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(206−6)
理解命歓びの歌、我昔と此度の歌、寒中いざいざの歌、皆やる・入来の歌、本作り奇しきの歌、ノーちゃんの歌、後藤さんの歌、ジュンク堂巡りの歌、ふとや我の歌、愛入来の歌、変貌何処への歌、燦々の歌、笑みこそはの歌、復活誤訳私訳の歌、信頼の歌、天来のマナの歌、それだけの事の歌、言の葉いのちの歌、原点破るの歌、挺身嬉しの歌、この天地の歌、御名崇むことの歌、逆転の歌、華の歌、祈り道の歌、復活省察務めの歌、ああ我やの歌、箴言第七条の歌、昨日もの歌。(2015年2月1日〜10日)

    2月6日
             信頼の歌五首

   「皆やって呉れる」妻言ふ大歓喜絶後一切任すとの意ぞ

   この人の信頼ほどの物やなしそれでこそなり笑み出でにけり

   思ひ出を一切天父奉献す地に残すなき只管飛翔

   かくまでの我と天父へ信頼ぞ岸辺の主共笑み表れぬ

   やがて見ん永久の御国の出逢ひをばいと慕はしや汝が身汝が時

            天来のマナの歌二首

   熱誠の友我が歌をよむごとに天来のマナ到来すとぞ

   我が心底の底をぞ詠はばや君底の底甦り往く

            それだけの事の歌三首

   新しき変貌論の時代来ぬ原点論の底破れけり

   本作りサッカーとそも異ならず打つ時に打つそれだけの事

   打つ時にゃ時始まると覚ゆるよ打たねば時ぞ止まりけるかな

            言の葉いのちの歌五首

   我が著作十篇用意成りしとぞ語りしならば妻目輝く(備考:今では熱誠の友ブログ所載「延原時行ブログ公開著作集」19巻これなり:http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+torigai/)

   ノーちゃんも一遍言ふてみたかったそやからあんた心配やめや

   入院で父さん勉強時間ないそんな心配やめときやなあ

   その途端
      ノーちゃん箴言
      猛発進
      God blessed the good day
      of self-reflection and self-dedication
   (備考:箴言第一条)

   人と言ふいきものにぞや言の葉ぞいのちなりけり永久や往かんも

             原点破るの歌六

   人はぞや原点在りて支へらる言ふだけではぞ救ひ無きなり

   原点に血も涙もぞなくしては心に響く縁(よすが)なきなり

   さらばぞや原点破れその底にエリエリとぞや祈る方在(ま)す(備考:原点何故破るかと言へば、人滅する故なり。原点元々この世の支へなるも、人滅する時支へること不可なり。これを我「原点破る」と言ふなり。原点破る時、滅したる者支へるは「滅して不滅」(ホ氏の言ふ”We perish and are immortal.” [PR, 351, 82])の仲保者基督、「岸辺立つ主」(ヨハネ福音書21章4節)なり。この世の原点「太初のロゴス」(ヨハネ福音書1章1節第一項)に非ず、「神と共なるロゴス、永遠の祈祷者」(同第二項)なり。「太初のロゴス」を「永遠の祈祷者」背後より包むなり。しからざれば、「インマヌエル」=神我らと共に在す=成り立つこと金輪際あり得ざるなり。「太初のロゴス」だけでは「世の根底」の意義あり。根底が「神と共なり」との意義有するは、ひとえに、「太初のロゴス」が「神と共なるロゴス・永遠の祈祷者」に包まれたる故なり。滝沢純粋神人学この点不十分なり:「太初のロゴス」しか語らぬ故なり)

   この方やそも「神と共」在(ま)す方ぞ受肉してこそエリ叫び給ふ

   かくしてぞ我らが思ひなべてぞや天父御許に奉献一途

   我妻や絶後笑み増し往きたるや思ひ出なべて主の祈り乗せ   (備考:かくしてこれ大乗基督教笑み増しなり。我が新発見なり)

        ♯              ♯

今日も上の「2月6日」の歌に加えて「今日の歌」を収めます。

延原さんはつねに「新たな天来の問い」をわが内に宿しながら「学問」を続けて歩んでおられますが、昨夜もお電話で「新しく宿った重大な問い」についてお話をして下さいました。その問いは、延原さんの提唱する「至誠心の神学」のさらなる練磨につながるもので、たいへん刺激的なものです。

「今日の歌」は、その問いを一気に詠う延原さんの「短歌神学」の妙です。私たちの「朝の学び」に最適の「朝の歌」です。

           〇(3月23日)御声の歌十一首

   我悟る父子ひらけこそ究極場ひらけ往くこと甦りなり

   さらば問ふ父子ひらけをば告ぐる声出だす御方そも誰なるか

   イエス言ふ汝らの父全きやその如くにぞ全かれとぞ

   父はぞやひらけに誠なる方ぞその如く汝誠なれかし
(備考:マタイ福音書5章46節:「あなたがたの天の父が全きがごとくあなたがたも全かれ」)

   父のぞや誠なること父言はずただ御子のみがこれを見て言ふ
   (備考:父御子に「内働」すなり)

   正しくや御子ぞ言(げん)にて在してや父の如くに誠なれ言ふ

   かく言ふや言(げん)正しくや受肉せる人なる事ぞなかるべからず

   かくしてやイエスの言(げん)や形成し御友としてぞ現れ給ふ

   我もはや汝らをぞや僕とは呼ばぬ友とぞ呼び遇すなり

   何故ならば父から聴きし一切を汝らに告げ知らせたる故   (備考:ヨハネ福音書15章15節)

   仄々と我悟りたり御友こそ岸辺の主なり父子ひらけまで
(備考:復唱。これイエスのキリスト論的三段階なり。我見るに、恩師純粋神人学にては、イエスに助けらるると言ふも、イエスから岸辺の主=復活の主=を通りて父子ひらけ=包括的ロゴス=まで往くこと定かならず。「イエスに縛られず」と言ふ故なり。滝沢においては、イエスの神格化批判する故、右のキリスト論的三段階定かならず。故にキリスト論的救済観に綻びあり。「インマヌエルの原事実に向かう」と言ふも、向うプロセス定かならず。滝沢の重要テキスト再度明示す:「それに対して、純粋な神人学は偶然的・一回的に与えられたナザレのイエスもしくは聖書という形態に助けられ導かれはするが、しかし束縛されない。むしろ、生ける道標としてのこの形態に導かれて、もっぱら道、真理、太初のロゴスに向かうのであり、バルトと共にいうならインマヌエルの原事実に、永遠に新たな、絶対的に不可分・不可同・不可逆な神と人間の関係に向かうのである。したがって、神人学はその本来の内容として特殊的・史的な形態を内に持つことはできないし、ゆるされないし、また持とうとはしない。それは神人学が通俗の意味で「抽象的普遍的」に思弁するからなのではない。まったく逆である。神人学があの絶対的に偶然的な、ただ生ける神ご自身によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存在に、かたくむすびついているからなのであって、この規定された人間存在を離れては、いかなる特殊的、具体的にして史的な形態も、この世界には現実として存在できないのである」『純粋神人学序説」272頁、熟読参照。これに対して我々は、「御友」を滝沢の言ふ「特殊的、具体的にして史的な形態」として戴く。御友こそ、キリスト論的三段階の史的結節点なるが為なり。バルトの和解論においては、御子は神の子の従順der Gehorsam des Sohnes Gottesにおいて在ることが終始一貫強調さるるも、神の至誠が強調されることあらぬなり。我々は「神の父子ひらけへの至誠」を「神の子が見て言ふ」所に従順ありとするなり。ここに我らの「至誠心の神学」のユニークネスありと観ずるものなり。神の「父子ひらけ」への至誠を見て言ふところに、受肉の御子イエスの従順ありとするは、新しき神学なり。この神学は、父子ひらけを仏教的空と同定する故、仏教との対話観に立つ。その点、バルトのこの点での非対話的姿勢を匡すものなり。今日はここまで認識が進みたるを喜ぶ。我が短歌神学は一歩一歩なり)


上の写真は、中庭の花壇に育っている「アーモンドの花」です。いまが満開です。

椰子の花もふたつ咲いています。

花壇のチューリップがようやく顔を出しつつあります。

そのほかの花壇に咲く美しい花々、春ですね!!