延原時行歌集「命輝く」(第2079回)(ふくらむアンズの蕾)

                 

       延原時行歌集「命輝く」(第2079回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(205−7)
復活省察物語の歌、恩師説佳しの歌、変貌時代の歌、友との歌、どうもねえの歌、賛と寒の歌、誠の歌、PK戦の歌、校正の歌、壁や超ゆるの歌、明々白々の歌、この夏やの歌、止まらぬぞやの歌、イエスと原事実の歌、称名の歌、命脈々の歌、称名一途の歌、妹背歓びの歌、天父優しきの歌、歌とはぞの歌、雪の歌、短歌神学の歌、誠にやの歌(2015年1月21〜31日)。

    1月27日
           止まらぬぞやの歌四首

   恩師ぞや教会の壁外の神主題とせるも我や妻笑み

   宇宙にて我や妻笑みモチーフとすこれ一つでや我が学ぞ成る

   かく言ひつ我が仕合せの成りどころふと明かせしや友や笑はん

   我が胸に雪降り往くや今日の日も復活歓喜止まらぬぞや

           イエスと原事実の歌十五首

   原事実イエスにてこそ事実的なると言ふときバルト悪しきか(備考:これ『カール・バルト滝沢克己往復書簡:1934−1968』新教出版社、2014年、176頁 にての滝沢のバルト批判なり)

   エスはぞ原初栄を我父よ華やがせよと祈り求むや(備考:これ史的イエスの極限姿なり。ヨハネ福音書17章5節:「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今御前にわたしを輝かせて下さい」)

   この姿原事実のぞ力動化父に求めし如何に動なる

   主の祈り父聴かれけり栄はぞ華やぎたるや主甦りたり

   栄華こそ父子ひらけなり主イエスはぞ祈りつ飛翔御姿や佳し

   かくてこそ栄もイエスも一つなりひらけにひらく復活主そも

   要するに恩師思考ぞ二対立三極目のぞ祈り知らずや

   バルトがぞ初めて事実言う時にゃ主のぞ祈りの御姿を指す

   滝沢の世界に祈り在らずして原事実とやイエス二極よ

   原事実イエスに繋ぐものはぞや主の祈りなり実にも尊き

   「イエス」だけ言ふ人ぞなき主祈るかくてこそぞや父子や一体(備考:イエスとしてのイエスあるなし。イエスに於て主祈り給ふ)

   一体や原初栄も主イエスもぞ天父へ祈り往き給ふゆえ

   かくてこそ原初栄とイエスとや祈りありてぞ天父と一ぞ

   滝沢やイエスに於て初めてやロゴス事実と成し疑ふ

   実にもぞやロゴス華やぎ甦り給ひしけりや主の祈りにて

  称名「イエスース・クリストス・インマヌエール・アーメン!」の歌七首

   エスースクリストスああイマヌエル称名誠父子ひらけ往く

   イエスースクリストスとは何言はん十字架上の「何ぞ」示せり(備考:[わが神、我が神、何ぞ我を見捨て給ひし。」[マルコ福音書15章34節]含蓄せるもの御父による甦りなり。十字架上の叫びヨハネ福音書17章5節に予示されたり。而してマタイ福音書6章9節の主の祈り「天にまします我らの父よ、願はくば、《御名》=即ち、父に依るイエスに対する、御子、ロゴス、キュリオス、救い主等キリスト論的称号賦与による、命名行為=を崇めさせ給へ。」との定式化に至れり)

   何ぞ我叫びし時の我が主そも「我」としてこそかく叫び給ふ
(備考:我が最深の「我」としてなり。受肉[die Menschwerdung]即我化[die Ichwerdung]とは我が青年時代よりの確信なり。拙著『無者のための福音――プロテスタント原理の再吟味を媒介に』福岡・創言社、1990年、第二章「何ぞ我を?」111−127頁、参照)

   然らばやインマヌエールアーメンやそも何言はん父子ひらけ実に(備考:元々明確に「神と共」なる文言、ヨハネ福音書1章1節第二項「ロゴス神と共なりき(pros ton theon) 」に窺へるなり。これ我「父子ひらけ」と呼ぶなり。このひらけ太初のロゴス(同第一項)を包むなり。かくて「インマヌエル」の二重性現成す。太初のロゴス父子ひらけに包まるこの包括性をわするるや、インマヌエルの原事実の概念性に止まるなり。故に、インマヌエルの原事実インマヌエルの原事実に非ず故にインマヌエルの原事実インマヌエルの原事実なり。概念性を否定してこそ、初めて実在のインマヌエル称へらるるなり)

   知るべしや受洗せし時人はそも称名世界入りたるとぞや(備考:恩師はぞ洗礼にて新しき事「心から喜んで私の隣人のために生きることを願うということです。」と述べ給ふ:『カールバルト=滝沢克己往復書簡:1934−1968』161−162、参照)

   称名に隣人愛を先立つるいかにもや拘束性やはしょりたる如(備考:バルト書く:「あなたは今や、ご自身が長く浸っていた単純なグノーシスから、小さく、貧しい、しかし決定的な信仰告白へと移りゆかれるのです。――キリスト教会の派遣と委託に単に内面的にではなく、決然と目に見える形で参与されるのです。抽象的で何の拘束力もないイエス・キリストと共なる存在から、具体的な、神の前のみならず日本という世界の前でも拘束力のある、そしてあなたをこの世界に対して強く結びつけるイエス・キリストと共なる存在へと移りゆかれるのです。」前掲書、186頁。因みに、滝沢は最後の書『純粋神人学序説』(創言社、1988年)では、「拘束力」の文字を嫌ひて書きしなり:「それに対して、純粋な神人学は偶然的・一回的に与えられたナザレのイエスもしくは聖書という形態に助けられ導かれはするが、しかし束縛されはしない。むしろ、生ける道標としてのこの形態に導かれて、もっぱら道、真理、太初のロゴスに向かうのであり、バルトと共にいうならインマヌエルの原事実に、永遠に新たな、絶対的に不可分・不可同・不可逆な神と人間の関係に向うのである」(272頁)。「向かう」とは、滝沢にとって、知的自由の姿勢であろう。帰依の香りはせぬ)

   受洗はぞ称名にてや悟後勤行ありてこそなり永久の道往く(備考:これ我が深き確信なり。称名隣人愛より先行すべし。これ御神と岸辺の主への我らが礼儀なり。称名思考と行動の浄化なり。称名なくば、我らやすやすと「我が思考は佳し、隣人愛の行動へと進み往かん」と思ひなすなり。危なし危なし。本日の称名の歌にて、称名の我が理解進みたり。有難し)

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本日も、上の「1月26日」の歌に加えて、今朝の新しい歌を添えさせていただきます。

         〇(3月13日)箴言修行の歌三首

   我が著述一生事なる妻や見て箴言励む決心やなる

   箴言のわざこそありて妻人生張りのある道拓きしを笑む

   我妻や絶後笑み増し往くほどに箴言修行喜びてこそ


昨日は、知り合いから立派な額縁を譲り受け、さっそくお蔵入りになっていた山田豊さんの切り絵の「六甲牧場」とほずみはじめさんの版画「メナクシリとクナシリ」を額に収めて、部屋に収めました。「六甲牧場」は、震災の折に額とガラスが壊れてしまっていたもので、穂積さんの作品は、『アイヌ今昔ものがたり』に収められました。

そして、もうひとつ岩田健三郎さんから頂いた版画もひとつ。


本日の写真は、昨日の夕焼けとぶらり散歩で目に留まった「ふくらむアンズの蕾」です。