延原時行歌集「命輝く」(第2046回)(須磨離宮公園の梅園)
延原時行歌集「命輝く」(第2046回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(202−6)甦り道の歌、広大宇宙知るの歌、この朝の歌、絵空事の歌、妹背対話の歌、二千日歌の歌、深みよりの歌、新しき飛翔の人の歌、人とはぞの歌、心にぞの歌、今ぞ生くの歌、復活嬉しの歌、何故にの歌、省察本の歌、一本の歌、新しき時代の歌、それ程にの歌、華やぎの時の歌、読む時の歌、熱誠の友の歌、師走日にの歌、未来生の歌、今朝の歌、今の時の歌。(2014年12月21〜30日)
12月26日
復活嬉しの歌
(一)原理論
恐るべき誤訳ありてぞ日ノ本の基教知らずや復活真実(備考:ヨハネ福音書21章15節:(聖書協会訳):「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」;(新共同訳):「この人たち以上にわたしを愛しているか」。これでは「愛する」の意味判然たらず。(拙訳):「ヨハネの子シモンよ、これらの物(注。舟や網、ペテロの旧来の生業漁師の道具一切、延いては宇宙の諸多性)を去りて(宇宙の中心・現在)《我》(注。ヨハネ福音書8章58節:「アブラハムの生まれ出ずる先より在る《我》」)をアガペ(受容)するや」。愛とは宇宙主・宇宙現在の受容のことなり)
宇宙主を受容すること直ちにぞ我が甦り笑みのほかなし
岸辺立つ主を絶後にぞアガペ(受容)せる笑み増し妻や誠麗し
悲しやも日ノ本基教これ知らずイエス愛好ヒューマニズム
かくすれば愛の主体は己なり一切解除忘れ主を見ず(備考:これ所謂「基督教」のからくりなり。その名「愛の宗教」とや。その心には「愛の自惚れ」臭みあり。主の元々の「一切捨てて我に従へ」(マルコ福音書8章34−38節、熟読参照)との命うち捨てたるよ、汝基教よ!)
(二)我が復活祝ひ
友ありて我が笑顔こそ復活と申されしぞや嬉しさ連動
存在の深みよりして歓びの滾々とぞや溢れける今
昨日は三つ揃へ着てジュンク堂妻との一書祝ひ見成せり
その後は伊勢丹寿司屋上りてや妻と祝杯挙げたるやこそ
朝まだき心に雪ぞ溢れ降る絶後妻笑み源や一
(備考:なあ、ノーちゃん。そう、父さん。主こそ源やなあ。そうや)
何故にの歌十首
何故に主をアガぺ(受容)すか主こそ我裏切りしにもアガペ(受容)し給ふ(備考:これヨハネ福音書21章15節にある「愛す」の意味なり:「ペテロ、我を愛すか、これらの物より」「主よ、我汝を愛すこと、汝知り給ふ」)
主よ誠我が愛やこそ御前にてアガペ(受容)のアガペ(受容)アガぺに非ず
我が愛や自ら成れることぞなき御恩寵知り溢るるやこそ
この思ひ絶後笑み増し往きし妻ありてこそなり笑み出でにけり
人生の最後のものが笑みなるは最初のものが恵みなるゆえ
我らはぞアガペせし事なかりけり唯主のアガペありて笑み往く
一切が滅する時ぞ来にけるも不滅なる愛ありて妻笑む
我や知る妻事切れしその時や岸辺の主こそ待ち給ひけれ
かくしてぞアガペのアガペ絶後のぞ我妻の笑み溢れ出でたり
何故に妻笑み往くや主こそ妻絶後よりしも近く在せば
♯ ♯
日曜日の「朝の歌」として、上の歌にこれ以上添えるものはありませんが、やはり今朝も、延原さんから届いた新しいメルマガ「風の便り」の中から、「御名崇むことの歌十五首」のうち、次の二首をここに収めさせていただきます。
我が歌や基督教の起源のぞ解明歌なり称へ歌なり
(備考:近く英文拙稿"Hallowed Be Your Naming: Toward a Process Theological Reinterpreatation of the Lord's Prayer"を我執筆の予定なり)
我妻や絶後笑み増し不思議やも御名崇めては往きにし姿
昨日UPした神戸新聞の記事に誘われて、早速ゆっくりとチャリンコに乗って、「須磨離宮公園」の梅園に出かけてきました。
今年の「梅見会」や「甘酒のふるまい」は、実は今日からはじまるのですが、予報では本日は雨でもあり、暖かなチャリンコ日和でもあり、今回はたっぷりと時間をかけて、梅園だけではなく、レストラン「花離宮」にも入り、少々贅沢な離宮体験をいたしました。
いつものように、正面入り口ではなく東側の植物園入口より入園して、お目当ての梅園へ・・・・・。
ここには、水仙や菜の花も綺麗に咲いています。梅園には約25種計170本の梅の木があるそうですが、いまは蕾が膨らみ始めたところです。そのなかのいくつかの梅の花が咲き始めていました。
まず目に留まった「ギョクボタン」(玉牡丹)という梅の木です。
次は「ヒノツカサ」(緋の司)。
次は「ツキカゲ」(月影)。
そして「リンシバイ」(淋子梅)。
今回の最後に「歌碑」と「ヤエカンコウ」(八重寒紅)。