延原時行歌集「命輝く」(第2035回)(ぶらり散歩「新湊川」まで)

                 

       延原時行歌集「命輝く」(第2035回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(201−7)
一書粛々の歌、朝の歌、「祈祷の省察」本生まるの歌、復活時代の歌、主の祈りの歌、実にも我の歌、ふと思ひの歌、妹背召命の歌、嬉しきやの歌、創意満々の歌、笑み伝ふ笑み伏すの歌、笑み増し誠の歌、甦り時の歌、御名の歌、御国の歌、我が心の歌、主の祈り省察の歌、春菊の歌、友ら言ふの歌、歌甦りの歌、妹背箴言問答の歌、主の祈り嚙みしむるの歌、旧著の歌、著作邁進の歌、予祝随にの歌、ノーちゃんなの歌。(2014年12月11〜20日

    12月16日
               御名の歌十一首

   もし御名が父の賜はる主(キュリオス)称号表すならばこれ過程なり(備考:父の御子へのキリスト論的称号賦与命名行為の過程にして、英語にて言はば、”your Name"に非ず"your Naming"なり。従ひて、父の命名行為即御子なり。これ基督教成立の秘儀なり)

   主称号賦与のぞ過程ピりピ書に描きたるなり実にも麗し(備考:「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを獲るべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、己を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主(キュリオス)である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」。ピりピ書2章6−11節、熟読参照)

   御子従順ケノーシスのぞ極みにぞ父甦り賜ひ主(キュリオス)と呼ぶ
   かくて成る主の祈りのぞ第一祷願はくは御名崇めさせ給へ
   崇むるや子の従順に父応ふ甦りのぞ命名やほむ
   第一祷元はと言はば御子祈り原初の栄華やがしめよ
(備考:「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今御前にわたしを輝かせて下さい」。ヨハネ福音書17章5節、熟読参照)

   この祈りひそと御父に捧げられ十字架上に辞世絶叫(備考:「イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは『わが神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」。マルコ福音書15章34節、熟読参照)

   誠にや我が大和にて武士(もののふ)が辞世残して散る如くなり

   辞世はぞ詩篇言の葉エリエリやイエス生涯最後飾れり(備考:「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか」。詩篇22篇1節、熟読参照)

   この祈り深き信仰ゆえにこそげに御父はぞ聴き給ひけり(備考:「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞き入れられたのである」。へブル書5章7節、熟読参照)

   かくしてや主の祈り成り第一祷御名崇むとは復活賛美

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本日の延原さんの「御名の歌十一首」も、私たちにとっての「朝の歌」には最適ですね。この深い「復活賛美」は「短歌神学」で詠われる延原神学の核心で、ただいま静かに浸透しつつある称名「IXIA! イエス―ス・クリストス・インマヌエール・アーメン」と「基督心経」(上の第二首目)が響き渡ります。


今朝は冬晴れの寒さで、明日はもっと冷たいようですが、予報では来週はもう春が来るらしく「春となり」の気配です。

今日の写真は、ぶらり散歩で「新湊川」まで・・・道ばたの花なども・・・。