延原時行歌集「命輝く」(第2000回)(神戸長田「西山公園」)

              

       延原時行歌集「命輝く」(第2000回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(197−8)我妻よの歌、輝く笑みの歌、一書恵まるの歌、朝まだきの歌、昨日はの歌、ご評言の歌、はいはいノーちゃんの歌、誤訳怖ろしの歌、為すから成るへの歌、受肉の解の歌、喜びやの歌、癒と祝福の歌、昨日はの歌、底―視点の歌、大悲の書の歌、底―視点の歌補遺、復活省察嬉しくもの歌、主よこの書の歌、一筆やの歌、短歌神学の歌(一)(二)、一つ心の歌、今朝の歌、驚愕の驚愕の朝の歌、驚きぬの歌:My Autumn Greetings in Tanka、我妻笑み増し賀する歌、一書の祭り乾杯の歌、平安なぜかの歌。(2014年11月1〜10日)

    11月6日
            短歌神学の歌(一)五首

   我が書出で既存神学なべてぞや散文神学なるや明らむ
   従ひてこの書散文世界のぞ作法で読むやちと腹痛む
   散文の世界なるもの直叙体在るもの在ると言ふや作法ぞ
   日ノ本の歌の世界や異なれり在るや滅すも不滅詠ふよ
   在るものを物語りては直叙なすそこ捻るこそ形而上歌ぞ

            短歌神学の歌(二)六首

   日ノ本の神学いまや歌となり復活称ふ短歌神学
   歌よまぬ散文人や復活を未だ称へぬ思案顔似る
   歌心復活心一つなり翻訳神学にや歌ぞなし
   歌なくば日ノ本神学ちと困る歌ひてこそぞ省察始む   (備考:因みに、これ我が「備考」の主旨なり、結構なり)

   ホ氏言ヘリロマンスなしに思索なし端から緻密求むや無粋(備考:ホワイトヘッド教育論のさわりこれなり:「(知的成長と関連させた場合、「ロマンスの段階」「精密化の段階」そして「普遍化の段階」の三段階が枢要なのであるが)ロマンスの段階は物事を理解する最初の段階です。此処では理解の対象となる素材が強烈な新鮮さをもっており、しかも垣間見られただけの豊かな可能性を内に秘め、未だ露にされない関係が内包されているのです。この段階では知識を体系立った手続きで獲得したりはしません。存在しているに違いない体系は、特別の断片をなしているだけです。この状態でわれわれは、単に時々しか体系的分析を試みない漠然とした事実を直観的に認識しているだけなのです。ロマンティックな感動とは、生の事実から出発して、未だとらえられていない個々の関係がいかなるものかについての認識へ移行する過程で生ずる興奮なのであります。(中略)教育は、その本質上、心のなかに湧きあがってきた混沌とした事柄を順序よく配置することでなければなりません。空虚(in vacuo)な心を教育の対象とすることはできません。このことからわれわれはややもすると教育活動とはサイクルの第二段階、すなわち精密化の段階のみであると考えてしまうのです。しかし、第一段階を削除するようなことがあれば、教育活動全体を誤解してしまうでしょう。夢のような状態にも理路整然とした精密さの修得にもさらにはまたそれに続く成果にも、われわれは等しく関心をよせなければならないのです。」ホワイトヘッド『教育論』久保田信之訳、東京・法政大学出版局、1972年、29−30頁)

   何故に翻訳神学歌無きか日ノ本心まるで見ぬ故



        ♯              ♯


新しい朝です。冬至の朝です。日差しはありますが、もっともっと太陽の暖かさが欲しいところです。今年もあと残り少なくなってきましたね。

昨日の午後は、地元の「あんしん・しあわせネットワーク」の合同会議のあと場所を移して恒例の「忘年会」・・・・。老若男女、御馳走と美酒、よいときを過ごさせてもらいました。

本日は「延原時行歌集<命輝く>」をこのブログで公開させていただいて「第2000回」目。

来る日も来る日も、溢れ出る歌を詠み続け、ご自身のメルマガ「風の便り」で内外の友人に配信され、それを少し時をずらしてここにもUPさせて頂いています。

延原さんのこの「短歌神学」は、このたびの新著『復活の省察ー妻と歌う:生くるとは深き淵より共に甦ること喜びてこそ』の刊行によって、ひろく注目を集めていますが、とくに祝福のうちに、信子夫人の「笑み増し」の出来事以後の日ごとの歌は、いっそう新しい世界が響き渡っています。

わたしたちにとって日ごとに届く歌たちは、いつも「新しい朝の歌」の贈り物です。


さて、歌に添える今日の写真は、ぶらり歩いて20分ほど山手のところにある「西山公園」です。今回も撮影の順番に。