延原時行歌集「命輝く」(第1046回)(日本シリーズ甲子園第一戦未掲載分)
延原時行歌集「命輝く」(第1046回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(192−1)つくづくとの歌、本出ずるの歌、復活の図の歌、我妻奇蹟五景の歌、新しき時代の歌、昨日の歌、本の歌、妻や言ふの歌、生くるとはの歌、笑み増し真因の歌、聴従の時の歌、如翔の歌、出ずればやの歌、宇宙和めりの歌、折々の歌、人死なばの歌、恩寵歌、新命の歌、朝祷にの歌、これからはの歌、飛翔の歌、我や知るの歌、友ありての歌。(2014年9月1〜10日)
9月1日
つくづくとの歌十二首
つくづくと偉大なるわざ心沁む汝が笑み増しの輝きてこそ
笑み増しのありてこそなり我新著復活省察極め往くを得
人生の絶後にこそや岸辺の主在せりとぞや妻の笑み告ぐ
我が胸に暖かき雪降りしきるよもや我が妻主と共往かむや
(備考:雪よもやの予兆なり)
そのよもやよもやに非ず誠なり実に実在のかくも近きよ
恩師言ふ特殊的なる形態や神人学の内になしとぞ(備考:「神人学はその本来の内容として特殊的・史的な形態を内に持つことはできないし、ゆるされないし、また持とうとはしない。それは神人学が通俗の意味で「抽象的普遍的」に思弁するからなのではない。まったく逆である。神人学があの絶対に偶然的な、ただ生ける神ご自身によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存在[注。原初のロゴスの人間面のこと]に、かたくむびついているからなのであって、この規定された人間存在を離れては、いかなる特殊的、具体的にして史的な形態も、この世界には現実として存在できないのである。」滝沢克己著『純粋神人学序説』福岡・創言社、1988年、272頁参照)
もしもぞや表現点が具体的人にひらかるものなれば逆
実在の内に在るもの何あらう笑み増す人の祝福のほか
省献の佳き日祝され生くるこそ人なるよとぞ妻笑み往けり
原事実「表現点」と言ふならば父子ひらけのぞ「岸辺立つ主」ぞ(備考:恩師の場合、実在は「神ご自身」として一元的Personality[人格性]とさるるため、父子ひらけを真に「ひらけ」と捉へ得ず、勢ひ不可逆的実体と化するなり。思ふに、「不可逆的実体としての神ご自身」は恐るべき神なり。何人もその前にて安心できず、恩師ご自身を含めて。我その様なる恐ろしき神信ぜず。父子ひらけに至誠なる無限にお優しき天父信ず。然るがゆえに、妻の言ふごとく、一切の地上の思ひ出持参しつつ、天父に奉献なして、人生の成るをつくづく喜び感謝するなり。これ復活の生なり)
不可逆を形而上学的となす心は常に人抑へたし
不可逆を受肉の事となしてこそ心に恩寵沁み渡るなり
9月2日
本出ずる歌十首
我が妻や人前出でず尽くしけり今本出ずる如何に嬉しき
(備考:只今二校了なり)
センターで箴言作り励みしや一歩は一歩祝福神学
(備考:第一条信子神学の心なり:"God blessed the good day of self-reflection and self-dedication.")
御神の祝福受けし信子様嬉れし嬉れしの本や出ずるよ
人の道生くる時のみならずして笑み往きてこそ現るるかな (備考:人の道今や一書に現る)
絶後のぞ汝が笑みやこそ佑くあり我が半世紀のぞ省察や成る
人生は不可思議なるよどこまでも汝往きてこそ汝が書今成る
(備考:なあ、ノーちゃん。ほんとおおきに、父さん)
誠にや復活省察妹背共産み出だせるや御神御心
死なばこそ顕れ出ずる命こそ誠笑み増し岸辺の主のぞ
かくなれば復活省察天来の笑みとしてこそ読み継がれんや
人如何に悲惨なるとも笑み往くの人の道あり父子ひらけまで
♯ ♯
延原さんの場合、若き日より稀有な「省察のひと」であったことは、これまでの著書、例えば『仏教的キリスト教の真理』(行路社)『無者のための福音』(創言社)『対話論神学の地平』(春風社)をはじめ、邦文・英文すべての作品がそうですが、同時進行のブログで公開中のその足跡の概略は、その膨大なドキュメント「延原時行著作集」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+torigai/ で閲読いただいている通りです。(延原さんのブログ公開リストは http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+nobuhara/ でご覧いただけます)
とりわけ現在ここで進行中の日々の「短歌神学」の展開は、稀有な省察の人ならではの、新しい世界の開けが響き渡ってまいります。
今朝も、雲一つない秋晴れです。洗濯物もいっぱいいたしました。
ところで、日本シリーズは場所を移して福岡での第三戦が始まります。
今日の写真も、甲子園のあの第一戦の未掲載分を、撮影順に収めておきます。こういう経験は、おそらく二度とないことでしょうから、少々多くなりますが・・・・。