延原時行歌集「命輝く」(第1042回)(但馬楽座・やぶ温泉)

             

        延原時行歌集「命輝く」(第1042回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(191−3)
復活の夢の歌、かたち成るの歌、笑み増し偉大の歌、叡知妻の歌、徒然の歌、妻真実の歌、今朝の歌、一書の歌、東海道線にての歌、校正の歌、同窓会にての歌、京都ジュンク堂にての歌、今日の歌、三年余驚きの歌、新著校正実在の歌、エコの原義の歌、恵み日の歌。(2014年8月21〜31日)

    8月25日
            今朝の歌五首

   熟睡も朝迎へたり妻と共生き抜くちから漲れるかな   (備考:妻激励しつつある深く感じて)

   昨夜にははしがきさらに磨きたり我が大学論凄み増せしか
(備考:至誠心の神学第三原理「創造的反復」と表記せり、嬉しも。第一原理:神は空に至誠なり;第二原理:空は空自らを空ず;第三原理:神は宇宙に在りて我ら被造者に至誠心を喚起するを得、現に喚起し給ふ唯一の御方なり。第一原理仏教との対話より学びし我が形而上学なり。第二原理大乗仏教の根本信条なり。かくして、第三原理は、元々キリスト教「ロマンス」なるも、このロマンスの仏教との対話また我が形而上学練磨を通じての「創造的反復」なり。典拠はヨハネ福音書21章の「復活物語」なり。これマタイ福音書1章16節―20節にある「召命物語」の「創造的反復」なり。弟子達裏切りの後に、復活の主によりて赦され再派遣さるる感動あり。これ我「創造的反復」と呼称するなり。因みに、ルカ福音書5章1節―11節は「召命物語」と「復活物語」との「混合物語」なり。なお、エピローグ「至誠心の神学、神のエコゾイックスの提言、大学形成の構想ーージョン・ヘンリー・ニューマン『大学の構想』を超えて」入れたり、佳し)

   一生を貫きて書く大学論「建学・対話・エコ神学」や(備考:これ大学の哲学的神学的構想論なり。トマス・ベリーの言ふ「地球共同体の成就」を根本要請として受け、ホワイトヘッドの「ロマンス――精密化ーー普遍化」のリズム論を「建学の精神ーー対話の精神――エコ神学」の構想に活かすものなり。ニューマンの言へる「宗教的真理は、一般的知識の一部なるのみならず、その条件なり。」との明言をキリスト教絶対主義から解き放ち、宗教間対話と地球共同体の成就の時代にふさわしく形而所学的神学の見地より練り直したるものが、我が「至誠心の神学による大学形成の構想」なり。ニューマンの古典的名著『大学の構想』The Idea of a Universityを超へんとす。近く上梓を果たさん。ご照覧あれ)

   我が歌は短歌神学日録よ日々思索日々詠ふ
   今日の日は二校ゲラ出ず嬉しやも復活省察いよよ歴然

    8月26日
         一書の歌(白新線にて)五首

   省察」のゲラ受け取りて一瞥す実に大いなる平安やあり

   御神やいと静々と御働き示さるること妻ぞ教へし   (備考:手のうごきと笑み増しによりてなり)

   省察」や常の書物と異なりて静にして朗笑みや零るる
   田園の只中へとぞ遣わさる我ら妹背の定め今知る   (備考:白新線列車の窓より稲田眺めつ思ひたるなり)

   何故にかくも遠くへ遣わさる我らの問ひにこの一書あり
   (備考:この一書回答なり)



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昨日に続いて、賀川関係の記事の配信がありましたので、少々長文のものですが、「読売新聞」2014年10月22日付けのものを、ここにUPいたします。


      恋と結婚(1)戦前に「神聖な愛」説く 

           


大正時代の「身の上相談」のあと、昭和戦前には「悩める女性へ」が始まる。賀川豊彦の登場を告げる記事(1931年6月20日)

 いつの時代も恋と結婚は悩みの種。激しい恋は、時として親や社会を敵に回すこともある。それでも、人を思う気持ちは変わらない。1月、5月に続く連載では、恋と結婚をめぐる100年の人生案内の変遷をみていく。
 大正時代の人生案内(当時のタイトルは「身の上相談」)は記者が回答しており、現実的な回答が多い。
 1916年(大正5年)3月4日の相談は、好きな男性から愛を告白された18歳の女性から。「養父の遺言で、私と養父のおいとは結婚しなければならぬ。義理と恋との板ばさみで苦しんでいます」
 回答は「あなた方の胸に往来している考えはまだ夢のようなものです。養父母の大きな恩の前に夢のような初恋(うぶごい)は犠牲にしなければなるまい」。
 結婚は家と家との結びつきであり、当時の民法では親の同意が必要。家督相続人(長男や一人娘など家を継ぐ者)どうしの結婚は困難だった。
 16年4月13日の相談は、かつて恋人がいたが二人とも家督相続人であったため、結婚をあきらめたという女性から。家族を安心させるために婚約者がいるが、「どう思い返しても結婚は嫌です」という相談に対し、回答は「女としての力と義務を果たしてください。どうせ、あなた一人がかぶりを振った(拒否した)とてどうなるものでもないではありませんか」。
 恋愛は危険なものと見られていた。23年7月28日の相談は、男から恋文が来るので困っているという女学校の4年生から。「異性も恋しく離れたくもないような気もいたします」という女性に対し、記者は「あなたはすでに堕落のふちに一歩も二歩もはいっている」と警告する。
宗教家・賀川豊彦 「家」「法律」に縛られず
 1931年(昭和6年)、回答者として賀川豊彦が登場し、人生案内(当時は「悩める女性へ」)に革命が起こる。賀川は宗教家としての信念から、恋愛は神聖で、家族の犠牲にしてはならないと説いた。
 「22歳の処女。父が銭湯をはじめ、私が番台をあずかっているうちに三助(銭湯の下働き)と恋に落ちてしまいました。両親は二人をどうしても許してくれないのです」
 賀川の回答は「恋愛に生きようとすれば多少の犠牲も払いますが、それも覚悟されなければなりません。あなたが恋人を得るためにあるいは両親のもとを出なければならない場合もありましょうがこれはやむを得ません」(32年1月21日)。
 当時は今とは違う階級社会。恋人に財産がないため、親から結婚に反対されているという相談は多い。賀川は、一貫して結婚するよう説いた。
 驚くのは、親の同意どころか、法律上の届け出すらいらないとしていることだ。
 27歳の女性からの相談。「主人は郷里の方々には自分を独身と見せかけ、私をよその者だと申します。一生を肩身せまく暮らすことを考えると味気なくなります。私はいとしい主人と別れ新生活に入るべきでしょうか」
 賀川の回答は「性生活にはいった動機が男の方に多少不純であってもあなたがそれを許すことができ、あなたの方にも愛が発生しているなら、あなたも大胆に今の家庭生活を続けてよいと思います。おそらくあなたの主人は日本の家族制度を恐れて、あなたを愛していても法律上の手続きをとり得ないのでしょう。そういう場合には、法律上の手続きを無視して愛の手続きを送ってもいいじゃありませんか」(33年5月16日)。
 戦前、親の許しがないなど様々な事情から、法律上の届け出をしていない事実婚は多かった。賀川の回答は、救いとなっただろう。
 戦前の結婚事情を研究している大塚明子文教大学准教授は「当時、恋愛を理想とする考えは、都市の中間層に広がっていた。しかし、情熱的恋愛をしている若者は、結婚相手を見極めることができないとされ、見合い結婚が一般的。恋愛結婚を親が許してくれないなら、人生相談の回答は『許してくれるまで待て』というのが普通だった。賀川の回答は過激で、戦後の考えに近い」と話す。
 (敬称略、引用文は仮名遣いなどを改めています)(斎藤雄介)
 賀川豊彦(かがわ・とよひこ) 1888〜1960。キリスト教社会運動家。神戸で救貧活動を始め、労働組合生活協同組合を指導した。自伝的小説「死線を越えて」は大ベストセラー。ノーベル文学賞、平和賞の候補となった。


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今朝も文句なしの、あっぱれの秋空です。ふとんを干しましょうか。

ドラフト会議で京大の田中選手のことが話題になっています。かつて京大の野球部で投手を務めて、村山実投手とも戦ったこともあるという神戸在住の津田康さん――高校野球の蔦監督を書物にした毎日新聞の記者としても知られている元毎日新聞編集委員−−もさぞ、今回の田中選手の快挙は、およろこびのことでしょう。

さて、今日の写真も日帰り研修のバスの旅の続きで、「但馬楽座・やぶ温泉」をUPいたします。研修旅行ももちろん温泉とお食事、そしてカラオケの楽しみもありました。


温泉の休憩所に横綱千代の富士の書がありました。