延原時行歌集「命輝く」(第1041回)(但馬長寿の郷)

             

       延原時行歌集「命輝く」(第1041回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(191−2)復活の夢の歌、かたち成るの歌、笑み増し偉大の歌、叡知妻の歌、徒然の歌、妻真実の歌、今朝の歌、一書の歌、東海道線にての歌、校正の歌、同窓会にての歌、京都ジュンク堂にての歌、今日の歌、三年余驚きの歌、新著校正実在の歌、エコの原義の歌、恵み日の歌。(2014年8月21〜31日)

    8月23日
           笑み増し偉大の歌二首

   人のなす偉大なるもの数あれど絶後笑み増しほどのものなし

   自らが偉大に非ず共にます御神こそやと示すゆえなり

            叡知妻の歌一首

   叡知妻豊浦実録にぞ言へり霊感はるかやっつけを超ゆ(備考:霊感とは箴言第一条のことなり:”God blessed the good day of self-reflection and self-dedication."やっつけとは第二・三条のことなり」”I am not a philosopher; but I know the philosophical world. This is the core of Christianity.”これがやっつけ言葉なるは、精神科医氏への批判なるが故なり。

8月24日
            徒然の歌五首

   ふと思ひ妻の好みし葡萄パンコモタウンのぞウオロクに買ふ(備考:朝から愛車Raumで赴きぬ。焼きたて一斤求めぬ。昼にチーズ、トマトと食せり。甚だ美味なりき)

   久々の散髪の間に新著をば語り尽くさば転寝や佳し
(備考:JR新発田前の丸井理髪店にてなり。『復活の省察』十分宣伝せり)

   復活の省察上下出したれば短歌神学一日一歩
   (備考:これ神学の新ジャンルなり)

   無限なる神と共なる時ぞ待つ妻の笑み増し告ぐる音信   (備考:何たる歓喜!)

   幸せは茄子の味噌汁なみなみと注ぎて刺身と合ふ夕餉かな
(備考:食前に妻はじめ多くの肉親友人のため祈りてのちよ。これ共同の会食なり)

    8月25日
           妻真実の歌七首

   我妻が代筆手紙書きし折我が心をぞ覗き見たるや
   (備考:代筆手紙我が家の習慣なりき)

   それ故に哲学をぞや我よりぞ学びたる言ふ言葉嘘なし

   まことにやその成果はぞ闘病中箴言に出ず驚きたるも
(備考:第七条なり:"I am living in the secular world; and yet I am blessed by the sacred world. Is this strange? No, not at all. It is quite normal in Japan, because Japansese society is very much influenced by the Buddhist wisdom: samsara is nirvana.”)

   箴言や実に見事なる修行ぞや自己反省に誠ありたり(備考:第二十九条、三十条:"My words of inspiration are far better than my words of criticism. My words of criticism are in need of self-reflection after they are spoken.")

   自らや第一条を霊感の言葉とぞ言ふ如何に真実
(備考:第一条:"God blessed the good day of self-reflection and self-dedication.")

   真実の心こそをば映したり妻絶後なる笑み増しこそは
   我妻や真実心深めつつ生きたるやこそ笑み祝されし


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下の記事は、昨日(10月22日)配信された毎日新聞のものです。

ノーベル賞候補だったキリスト教社会活動家・賀川豊彦の胸像完成 神戸で除幕式

キリスト教社会運動家労働運動家、国会議員など幅広い活動をした賀川豊彦(1888〜1960)を顕彰する賀川記念館(神戸市中央区)で、開館50周年を記念して胸像が設置され、21日に除幕式が行なわれた。関係者など約30人が集まり、同館1階にある日本基督教団神戸イエス団教会の上内鏡子牧師の司式の下、記念の日を祝った。
この日披露された胸像は、高さ約2メートル、幅60センチ、奥行き60センチ。社会活動や貧民救済に生涯をささげた賀川豊彦が、ネイビーブルーのスーツと柔和な顔立ちで再現された。彫刻家の小杉三朗氏が、粘土の原型の上に漆(うるし)を浸した麻布を何層にも貼っていく「乾漆(かんしつ)」という方法で半年かけて制作した。
小杉氏は「賀川豊彦の人間としての温かみを表現するために、大きなふっくらとした手に特に力を入れて作りました。これをきっかけに現代の若い人にも賀川豊彦の生き方をぜひ広く知ってほしい」と話した。
賀川記念館は1963年にオープン。現在は、神戸に住む在日外国人の子どもへの日本語教育や福祉、キリスト教に関するイベントの会場として使われている。また、賀川の社会活動や労働運動、YMCA、キリスト教の伝道活動などを振り返るミュージアムや、スラム街で労働者のために開業した一膳飯屋「天国屋」にちなんだ「天国屋カフェ」、研究室などが併設されており、年間約3千人以上が訪れる。
賀川は戦前、インドのガンジー、米国のシュバイツァーと並び、「貧民街の聖者」として日本よりも海外で知名度が高かった。そのため現在も海外からの訪問客が多く、韓国や中国の牧師が研究のために訪れることも多いという。同館の西義人参事は、「日本と同様、韓国や中国でも経済格差の広がりに社会が苦しんでいる。キリスト教と社会運動の両面に人生をささげた賀川豊彦の生き方に、現代の教会のあり方のヒントが求められているように思う。ぜひ日本でも多くの人にその生涯を知ってほしい」と話した。
賀川豊彦は神戸生れ。戦前の日本の労働運動、生活協同組合などで大きな役割を果たした。16歳のとき、日本基督教会徳島教会で南長老ミッションの宣教師から受洗。キリスト教社会主義トルストイ反戦運動に影響を受け、17歳で明治学院高等部神学科に入学した。
21歳のとき、神戸のスラム街に住み路傍伝道を開始し、女工だったハルと出会い結婚。その後、米国のプリンストン大学プリンストン神学校に留学。帰国後は牧師としても活動する。1920年に出版した自伝的小説『死線を越えて 』は、当時の大ベストセラーとなり、一躍名を知られるが、印税のほとんどを社会運動のために投じた。
また労働者の生活の安定のため、神戸購買組合(現・コープこうべ)を設立するなど生活協同組合にも取り組んだ。その後も労働運動、無産運動を取り組みながら、1920年代は「神の国運動」を開始。日本全国や、中国、米国など海外でも伝道活動を行なった。
戦後は貴族院議員を務め、日本社会党の結成にも参画。ブラジルやタイなど海外での伝道活動も続けた。また近年の資料から、1947年と48年にはノーベル文学賞の候補に、1954年から56年にかけてはノーベル平和賞の候補者として推薦されていたことが分かっている。1960年死去。勲一等瑞宝章を贈られた。


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雨上りの晴れ渡った朝です。今日は六甲山小学校でストーブの火入れの行われる日だそうです。

洗濯もいっぱい済ませて、小鳥もベランダに出して、掃除も終えて・・・このブログをUPして・・・新しい一日がスタートいたします。


さて、今日の写真も「但馬長寿の郷」です。