延原時行歌集「命輝く」(第1027回)(「高野山」)

            

       延原時行歌集「命輝く」(第1027回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(189−4)箴言はじめの歌、丸き口の歌、いざ本作りの歌、宇宙論神学の歌、復活形而上学的神学の歌、今日の日はの歌、あとがき成るの歌、日々の歌、人と復活の歌、主イエス祈り給ふの歌、麗しの歌、主の道麗しの歌、反論痒み消へし歌、あの日よりの歌、復活の歓びぞ今の歌、校了の歌、今の歌、変転の歌、さあの歌(2014年8月1日―10日)

    8月5日
           復活論の歌十一首

   日ノ本に本格的の復活論起こるを願ひ愚作一巻
   ひとびとは何故に復活論ぜざる躊躇逡巡日ノ本の怪
   日ノ本の基教はかくて人間の愛の競争ただ励みしや
   「これらより」我愛するや訊きし主を「この人らより」とぞ早とちり(備考:ヨハネ福音書21章15節の翻訳(聖書協会訳も新共同訳も)世紀の誤訳なり。「これらより」=ペテロの旧来の仕事漁師に必要な舟網一切、延いては宇宙の諸多性より。「この人らより」=自分を求め諸人がや愛の競争始むとぞ、主イエス思ひし思うは思想貧困)

   問題は宇宙中心なるにぞよ地上の競争思ひし無残
   何世紀日ノ本にては基教まだコア復活を悟られずあり

   ひとびとは総体解除知らぬゆえ主への帰一もいと解せぬ如(備考:「助けられ導かれはするが、しかし束縛されはしない。」などと言ふ人もあり。この人には帰依帰一なし、観察認識あるも)

   隆盛を己が愛にて確保せんこの妄想も早や何世紀
   さりながら我妻や笑み御国入り祝されし今喜び無尽
   今や我復活省察完成すひとへに妻ぞ笑み増し佑く
   我妻の絶後笑み増しなくばぞや我一介の愚者にすぎざる
   (備考:そういうこっちゃで、ノーちゃん。おおきにね、父さん)


        ♯              ♯


新潟の考古堂書店のHPには、次の新著案内が登場しました。

<復活の省察[上巻] 妻と歌う:生くるとは深き淵より共々に甦ること喜びてこそ
最愛の妻の絶後に「笑み増し」と称する笑顔の変化にキリスト教義「復活」を見出した著者による体験的神学の集大成。
考古堂書店 定価:\3,564(本体 \3,300)>

まことに適切な案内文です。地元新潟市内の主要書店には並び始めているようです。全国の最寄りの書店での注文もOKですが、ネット上でも検索注文ができるようです。


       ♯               ♯

延原さんから届いた今朝のメール便で、本書に関連する大切なコメントが綴られていましたので、少し長文ですが、以下に添付させていただきます。新著にこめられた著者のおもいが明晰に認められています。


「私は妻絶後の笑み増しに接し、初めて復活の省察の完成を見ました。このことは全くの逆理です。普通の幸せな夫婦ですと、あり得ない復活の奥義の洞察に導かれました。それも妻の命の犠牲あってのことです。
 ところが、その命の犠牲というのが、単なる犠牲ではありませんで、そのままが最高の命の祭典「復活」だったのですから、目もくらむばかりの逆理です。そして、この逆理は、命は今生の命だけではいのちではない訳ですから、永久の命の特質であります。それを示す徴が、信子の「絶後の笑み増し」であります。
 恐らく彼女の絶後の笑み増しがなければ、私は回復不可能な絶望と悲嘆に突き落とされたことでしょう。しかし、私は、一切の前提なしに、信子を救急車で県立新発田病院に搬入し、人口呼吸を続ける中で、絶後に必ず笑みが出てくるぞ、と信じておりました。当然の事として。それほど喉に食べものを詰まらせて絶命する直前まで「父さん、人生最高の幸せや」「何でや」「父さんが皆やってくれるから」という会話を続けていた事の、当然の帰結は自明の事でした。
 ところが、この当然の帰結「笑み増し」は、驚天動地の出来事「復活」の姿に他なりませんでした。それは、「岸辺に立つ主」の姿ですーー良寛の「元の誓ひの姿なりけり」の、あの「姿」の意味におきまして。
 この度、拙著に縷々開陳しております様に、ヨハネ福音書21章(ことに4節「岸辺に立つ主」、15節「これらの物(注。ペテロの旧来の生業漁業に関する網や船や一切の道具、延いては宇宙の諸多性)酔いも私(注。宇宙の中心・基督)を愛するか」との主の問い、15,16,17節「我が羊を飼え」との宇宙的キリストの命法)を私は、物語神学から形而上学的神学へと読み替えました。
 そうしますと、復活の基督のペテロとの問答は、滅して不滅なる者との問答であることが分かってまいりました。殊に最後の「我が羊を飼え」との命法は、滅して不滅なる者への「宇宙的ケア」の任務への再派遣(Re−missio)の招きであることが見えてまいりました。甦らされた死者には任務がある、ということです。死んでも仕事がある、ということであります。永眠でなく、永働です。それが「永遠の生命」の実相です。
 この問題は、現在福祉医療の最先端で、柳田邦夫氏が「死後生」と名付けているものと重なります。「人の精神性のいのちは死後も後を生きる人々の心の中で生き続け、それぞれの人生を膨らませる。それを私は『死後生』の呼んでいます」(毎日新聞9月27日付『柳田邦夫の深呼吸ーー[「生と死」のかたち]遺す言葉と「死後生」』)。
 思えば、人類は長きにわたって「生残り」神話で暮らして参りました。今生主義です。この立場は、死んだ人々が(主体的には)死んでいるが、ホワイトヘッドが言う意味で「客体的に不死性」であることに気づいておりません。ということは、「文化」というものの深層に無智だということです。というのも、文化の贈り手は、気づいてみれば、ほとんどが故人だからです。学生たちが学校で学ぶ殆んどの書物は故人が残しました。
 もしも、故人が完全に滅しているのであれば、文化に命はありません。ところが、私は文化の背後には「死後生」を生きる客体的不滅者達が生きているのであって、必要なのは、「言甦り」(客体的不滅者達の言葉を生きたものとして受け取り直すこと)です。私にとって妻信子との今度の本の出版は、そのような「死後生」の意味を持っています。
 私に言わせれば、死後生の背後には、絶えず基督の「我が羊を飼え」との呼びかけが鳴り響いています。その呼びかけを聴くのが、キリスト教主義大学の「礼拝堂」に於ける任務です。したがって、そもそも、その礼拝堂を復活の基督のために建立するのが、キリスト教主義大学の「文化的」任務であります(信仰的随順の証でありますとともに)。
 これらのことを命の核心にかかわる事柄として大切にすることなしに、愛の実践をキリスト教の使命だと見做す近代主義の生き方は、正しいようで、偽善です。人とキリストの何処をどのように愛するのかが、判然としないからです。私は人もキリストも、復活者として遇することが愛である、と信じる者です。

 生くるとは深き淵より共々に甦ること喜びてこそ


       ♯               ♯


昨夜からノーベル賞の受賞の喜びで沸いています。
今日は寒露、満月の皆既月食があります。今朝の神戸も、真っ青な秋の空です。

本日の写真は、前回の「熊野本宮大社熊野古道」よりバスで長時間移動して「高野山」です。まずは参道をゆっくりと・・・。

その前に、バスの移動途中でみた稲の収穫の田んぼの風景より