延原時行歌集「命輝く」(第917回)(昨日の我が家と住宅のあれこれ)


      延原時行歌集「命輝く」(第917回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(179−1)笑み増しの歌、喜びの歌、思ひ出作りの歌、道の歌、随順の歌、思索の歌、天地喜びの歌、復活立証の歌、甦りの歌、二度の歌、命歌の歌、予兆の歌、歌ある日の歌、天地一体の歌、古希の笑み讃歌、驚くもの歌、成るの歌、在共空間の歌、朝の歌、幸せの歌、我妻人生不思議の歌、怪我の功名の歌、学べりの歌、延原信子復活歓びの歌、佳き日々の歌、我が復活思索の歌、笑み無尽の歌、時の歌、春一歩一歩の歌、箴言の歌、笑みて往かんもの歌、笑み増し五態省察の歌、妻思ひ出作り往くの歌、学ぶ時の歌、新しき朝の歌、托すの歌 (2014年4月21−30日)。

    4月21日
           笑み増しの歌六

   人真価棺の蓋蔽ひてぞ現るる言ふ笑み増しや妻
   一切の人間的な手柄より笑み増しこそぞ天父祝せり

   誠にや人としてこそ生まれしは岸辺立つ主と笑み往くぞ幸
   人我ら残る紅葉も散る紅葉人を評すも束の間と知る
   さもあらば我妻の告ぐメッセージ心して聴き笑み念じたし

   恐らくや復活省察世に出ずや聊かは笑み求む人あらむ   (備考:新著『復活の省察ーー祝福のうたと共に』なり)

            喜びの歌四首

   退院の日から我妻隔週に寿司運びしは今も喜び
(備考:最高の美味二年五ヶ月隔週=水金日=提供せり:どんなもんや、ノーちゃん。美味しかったよ)

   あの日朝今一番の幸せと妻述べし幸喩へ様なし

   妻にとり我先に逝く思ひはぞ実に怖ろしき逆こそ祈り

   祈りぞや聴かれて父さん皆やると分かりし頃や笑みや増すほど
(備考:父さん、今一番幸せや。何でや。皆やってくれるから。そうか、皆やるで――3月11日早朝妹背会話)

          思い出作りの歌二十首

   箴言の完成ほどの偉業なし何がそこにぞ含まるるかや(備考:「祝福の今」草稿=豊浦病院闘看病日録、自2011年6月13日至同10月5日=再読せしも、箴言完成見届けし)

   生くる日の祝福をこそ綴る文字今や表す思ひ出奉献

   God blessed the good day
Of self-reflection [on life memories while smiling]
And [when time passes]
Of self-dedication [of life memories to]
[The Kingdom of Heavenly Father Everlasting]

   我妻や三年有余練磨せし思ひ出づくり御神祝せり

   それら日々癒し超えてぞ思ひ出をつくる尊き日々なりきやも

   思ひ出の天父奉献なくしてぞ人いかでかや笑み往くやある
   (備考:これ我妻延原信子の生涯要諦なり)

   喜べや一日一歩生くるこそ天父に土産作りしなれば

   人生は二重真実たくはえつ地上に在りつ天上に成る

   人生は実に土産なり土産なくそれをそのため思ふ果敢無し
   (備考:果敢無しの根源ここに在るなり)

   汝(なれ)これら物よりも我愛するや御声尊し復活主ます
   (備考:ヨハネ福音書21章15節熟読参照)

   土産とぞ思へば如何な苦労でも望みなきこと誠あらざる

   人生は実に二重なり生くる事生くる事のぞ祝さるる事
   いや果てに祝福なくば何のため生くるかやぞや無きが定めぞ
   (備考:これ我二重真実の定めとは言ふなり)

   人生の到る所にほまれあり永久のほまれの無きぞ果敢無し(備考:数々の地上的賞あり、それ人々の活きる力なり、されど、何ぞ永久の誉れ欣求せざるや、君)

   果敢無しはリアリティ見ぬ虚仮不実死の死見ぬ人絶望死なん
(備考:絶望と言ふ「死」作りて死ぬるなり。キェルけゴール『死に至る病』熟読参照)

   命をば永久のほまれを除きてやただ生くる事進むこれなし

   進むとぞ思ふ間もなく息切れす天父祝福欠くる意気なし
   かくあれば妻の棺中笑み増せる命祝すや天父宣ふ
   人生は終りまで生き笑み尽くす包括的なる命なりけり

   かく言ふも永遠の言(げん)天父とぞ共なる命(pros ton theon)なる故ぞかし(備考:永遠の言(ロゴス)人世の原事実なるは太初の事なり。ここまでは恩師滝沢克己インマヌエルの原事実論にて明らかにせり。されど、この初めより我らその奥に在る「言は神と共にありき(pros ton theon)」の真実に見(まみ)えるべきなり。恩師これ識り給はず。然らざれば、命終局(テロス=目的)なし。終局実は新たなる初めなり。我妻信子の信じる如く、命終局(テロス=目的)天父に思ひ出作り棺の焼くるを超えて持参奉献なす所にあり。これホ氏の、”In this Supreme Adventure, the Reality which the Adventure transmutes into its Unity of Appearance, requires the real occasions of the advancing world each claiming its due share of attention.”[AI, 295]の文中イタリックス体にて詠う「うた」なり。それ生涯欣求せるは、信子のメッセンジャーたる天来の任務なり。世界よりの思ひ出我ら作り棺を超えて持参奉献せねば、天父に土産あるなし。ならば、宇宙に完成あるなし。すべてを神なし給ふとの絶対不可逆の神論の誤れるはここなり。奉献なくば、帰依なし礼拝なし命なし。神全能にて神学終れるに非ず。讃美なくば宇宙に華やぎなし。復活全能と讃美共に包みたる華やぎなり。これ「神にして人、人にして神」の御子に顕れたる真実なり、美なり、宇宙の義認(宇宙存在の正統性の論証)なり。この真実、言神と共(pros  ton theon)なる道、道にして妙なる冒険(ホ氏の言へる"an Adventure in the Universe as One”「一としての宇宙における冒険」これなり)、すなわち、「実在(インマヌエルの原事実)の、冒険(主の原初の祈りと我読む:ヨハネ17・5熟読参照)による、現れの統合(わが言葉では、「華やぎ」)への、移行(Transmutation)の美(ホ氏の言ひし”Beauty”の範疇)にぞありける。かつてカール・バルト言へり:「神学は美学なり。」(Theology is a science of pulchritudo.)我言はん、命終りは新しき初め、実に美の極致なりとぞ。我妻信子はそのため使ひせしなり。何たる祝福ぞ)   



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延原さんから昨日も新しい歌ーー妻メッセンジャー真情の歌十首ーーが届き、信子さんの英文箴言第七条:"I am living in the secular world. And yet I am blessed by the sacred world. Is this strange? No, not at all. It is quite normal in Japan, because Japanese society is very much influenced by the Buddhist widsom: samsara is nirvana.”と西田幾多郎の遺稿に刻む「生死即涅槃」の呼応の妙を詠い、その喜びをお電話でも聴かせてもらいました。

これまで歌に添えて延原信子さんの写真をUPしてきましたが、近々延原さん作成の新しい写真帳をお送りいただけるそうで、到着しましたら引き続いて、ここで収めることができます。


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神戸は朝から爽やかな快晴です。

このところ少し御縁のできた在日コリアンの働きが一般社団法人になり、長田に新しいカフェ「ナドゥリ」(<お出かけ>)が開店しており、ちょこっとお出かけしてみる予定です。

明日は朝から一日中、明石市で開催される人権交流の定期大会に出席のため、ブログはお休みになります。

今回の写真は、昨日の我が家の、文鳥やメダカたち、そして住宅の花壇の隣にいまみのるヤマモモ・びわ・かりんなどを収めます。