延原時行歌集「命輝く」(第886回)(「永沢寺の芝桜」


      延原時行歌集「命輝く」(第886回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(177−1)示すの歌、変貌系譜に入るの歌、三段階の歌、妻奇蹟の歌、静中動なる御神称ふの歌、将にの歌、日々奇蹟の歌、妻の幸の歌、不思議なりの歌、ノーちゃんよの歌、この朝の歌、今にしての歌、幸せの雪の歌、称ふべしの歌、梅も桃も綻びての歌、我が歌の歌、妹背会話の歌、全快の歌、延原信子一生の歌、語りしの歌、信念の人信子の歌、思ひ出奉献の場即復活の歌、命の歌、麗しき哉の歌、我妻よの歌、何故にの歌、岸辺立つ主よの歌、一瞬の歌、復活の歌、人すべての歌、イエス出現主旨の歌、即座の歌、訊き給ふの歌、我妻よの歌、時々にの歌、往きし人と次ぐ者の歌(2014年4月1−10日)

    4月1日
             示すの歌五首

   お優しき天父御心なによりもひそ開きゆく右眼にぞ見ゆ
(備考:これ2010年12月1日救急車に信子搬入したる時救急隊員「瞳孔全開」と言ひし我聞き、胸締めつけられたりし右眼なりけり。これ今仄かに開くが如し。何たる優しさ!これ、妻の側からは、self-dedicationの笑みなり。天父信子一枚の笑みなり)

   生涯を顧みる笑み父さんよ幸せやったおおきにねとぞ
(備考:これ甘えの顔なり。self-reflectionの笑みなり。第二段階(1)のフォト。打たるるままの厳かなる顔(第一段階)から反省の顔(第二段階(1))、反省の顔から基督にあるところの称名の顔(第二段階(2))へとノーちゃんの顔笑み増し示したるなり。最後が右眼仄かに開きゆきつ天父仰ぐ笑顔なり(第三段階))

   御国をぞ仰ぎ見て在りイマヌエルアーメン称ふ我妻の笑み(備考:称名微笑在基督 2014年3月13日告別式の朝:God blessed the good day in Christ!第二段階(2)のフォト)

   打たるれば打らるるままや妻の顔如露亦如電(にょろやくにょでん)応作如是観(おうさにょぜかん)   (備考:粛然:第一段階のフォト。粛然の顔就寝時常にありたり)

   かくて我見しものは是我妻の生涯傑作笑み増し嬉れし(備考:2014年3月11日午後2時25分絶命;12日前夜式;13日告別式に顕れしや我妻延原信子の生涯傑作「笑み増し」ぞ嬉しき。フォトアルバム十五笑み絶頂なり)

           変貌系譜に入るの歌四首

   我が主もや十字架上に何ぞ我叫びし後に執成し給ふ
   (備考:マルコ福音書15章34節ーールカ福音書23章34節熟読参照)

   これをしも大変貌と我名づく宇宙成りしはこの故にこそ

   良寛も草倒れたる後にこそ元の誓ひの姿なり言ふ(備考:これ我が宇宙時代の良寛・第三著『良寛宇宙変貌のうたーーホワイトヘッド風神学と共に』の主題なり。主題我妻信子棺中の笑み増しにて詠いけり。不思議なりけり。有難きかな。因みに、良寛第三著の主題我が心にあらかた成れる時に妻「笑み増し」見事に描きてゆきし、嗚呼、如何に不思議なるや!)

   我妻や生涯の果て棺中に笑み増し行けり変貌に入る
   (備考:信子宇宙変貌の系譜に連なりたるよ。華やぎや見事)


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 延原さんの歌に添えてご夫妻の写真を収めています。

 前回は若き日の「牧師労働ゼミ」をUPしましたが、この愉快な試みは、翌年も続き同じ尼崎教会を宿(ドヤ)にして、1968年1月21日〜27日迄「第2回牧師労ゼミ」が企画・開催されました。

 第1回は兵庫教区職伝委員会の主催でしたが、第2回は日本基督教団職伝委員会並びに大阪教区職伝委員会が後援し、参加者も定員20名に増員、1968年9月発行の『報告書』も写真入りの立派なものが残されました。

 しかもこの労ゼミには、女性牧師ふたりの参加があり、そのひとり佐々木信子さんが、延原さんのパートナーとなり、歌で歌われる「延原信子」(ノーちゃん)となるのです。

 「ついて来たいと思うなら――修行・卑下・社会性」という主題を掲げて、延原さんが委員長を担われました。

 まず『報告書』の表紙にある写真を収めます。


前列右端が延原さん、佐々木信子さんは前列左3人目です。

 
 この『報告書』には、佐々木信子さんの貴重な寄稿文がありますので、延原さんのご了解を得てここに収めて置きます。


           労ゼミに参加して
                          佐々木 信 子

 学生時代クラス・メイトや友人達何人かが労働問題に関心を寄せ、実際学生労働ゼミナールに参加したか、労伝のインターンをしたりしていたことを知っていた。しかし、これまでそうした方々の動きを知的に理解するということはあったとしても、私自身がそれらに深い関心を寄せたということはまずなかったというのが正直なところである。
 労働問題について考えることを避けたり、毛嫌いしていたというのではないが、何かそれらに関心を寄せることの出来るような接点を持たなかったからだと思う。

 私が育った教会、そして神学生のフイールド・ワークとしていくつか回った教会、それらは多少の差こそあれ比較的めぐまれた環境の中で、物心共に整えられた(ようにみえる)人達の集まりである。そして今働いている教会も住宅街の人達を多勢集めているものの、いわゆる労働者が作業着のままやって来ることはほとんどないと言ってよいくらいである。

 ところが昨夏一人の青年労働者が教会にやって来た。何か泣きつくような表情をして。善良そうであるが、何か暗さを秘めたような人であった。暗中模索しているように思われるその人の姿を見て、私も必死になってその人を受けとめようとし、出来るかぎりの親切をし、教会の案内をした。彼は後日約束通り、汗にまみれた作業着のままやって来た。しかしそれっきりだった。

 こんなことはどこにでもよくあることであろうが、教会の中でほんとに憩うことなく、なぐさめられることが出来ない。たとえ立派な服装をして彼が来たとしても教会を去って行ったのではないかと思う。

 教会の中では実に体裁のよい言葉が語られ(私自身が事実語っていると思う)、会衆もうなずいている。しかしほんとにこれでよいのだろうかと考えさせられるようになった。また一週間の働きの中でほんとに疲れきっている人に対して、自分の語ることがこれでよいのだろうかと不安を持つようになった。
 他の方から見れば全く小さな経験だと思うが、職場で実際に働いたことのない私にとってはどう処理すればよいのかわからない問題であった。

 今労ゼミに参加した時のことをふりかえってみて考えることは、たった五日間で受取ることが出来たものは非常に漠然としてはいるが、何かの一端にふれたような気がするということである。

 尼崎製紙という一三〇人ばかりの従業員をもつ中小企業。辞書、書籍、カレンダーなどに使われるための大きな紙をそろえ、定められた枚数にし、包装し、発送するのが主な仕事のようであった。
 石田姉と私に与えられた仕事は包装であった。ただ非常に重く、つかみにくく、積みあげるのに苦労をしたということをのぞけば、仕事自体は単純であった。

 中学校卒業後まもないと思われる方から、五〇代をはるかに過ぎているよう婦人達と働いたものの、疲れを同様に感じることは出来たが、いわゆる労働者としての悩みというようなことはほとんどわからなかった。しかし自分の仕事が社会の何かに役立っていると考えることの出来る職業にかならずしも、いやほとんど就くことが出来ないことを知っていても、あけてもくれてもこんな単純な仕事をしなくてはいけないということに対する空しさ、劣等感、従業員の数ではなく、仕事の量だけをふやそうとする経営者側のやり方、しかし働かずに生きて行けない従業員一人、一人・・・。そしてたえず何かにおびえている様子。たとえば私達を何となく一歩退いてながめている。好奇心をもって寄って来るが、何かを尋ねると、当りさわりのない答(警戒心?)。会長によばれて作業時間中に約二時間職場をぬけ出した時など、多くの方が「何か言われたん?」と不安そうに聞く。この方々は一体何が恐いのかしら?

 五日間の体験の中で、今もぼんやりとしてはいるが、何かもっとはっきりさせたい、はっきりさせなければいけないと思うものを感じとった。
 疲れを覚えながら夜毎なされた聖害研究の中で読んだ聖書が静かに語りかけるのを知った時、何か私にも新しい領域に目をひらくことが出来そうな気がした。

 
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 『報告書』には他に4枚の写真が入っていますので、鮮明ではありませんが、これも収めて置きます。


 一日の労働を終えて、夕食のあと学びと話し合いの時があって、この時は、小池さん(中央)の司式でユニークな「聖餐式」を執り行っているところです。右が延原さん、左が小柳さん。


 労働を終えて、気持ちよく寛いでおられます。左から鈴木さん、ゲストの中森さん、寝入っおられるのは種谷さん、そして松本さんです。


 右延原さん、左金田さん


 朝食の準備中・・鈴木(昭吾)さん、荒川さん、石田さんなど



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 最後に、今日の写真「永沢寺の芝桜」を収めます。