延原時行歌集「命輝く」(第864回)(久しぶりに須磨の海)


      延原時行歌集「命輝く」(第864回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(175−16)
歌の歌、歴史皮肉の歌、どれ今日もの歌、宇宙時代良寛の歌、にせ正義と風の歌、電子ざんげの歌、風の歌佳しの歌、風の歌メタフィジックス大発見の歌、如何なるやの歌、箴言の歌、この時代の歌、突然にの歌、我切にの歌、今日の歌、春の歌、今朝の歌、妻の歌、前夜式の歌「御神示しぬ」、信進みぬの歌、信の道の歌、友ありての歌、あの日の歌、祝ひの歌、我妻の道の歌、朗々の歌、驚きぬの歌、華やぎの春の歌、天がける日の歌、大仕事の歌、これからの歌、時の救ひの歌、人如何にの歌、篤き言の葉の歌、我妻よの歌、さながらやの歌、延原信子フォトの歌、フォト見るの歌、我覚るの歌、御旨一枚の歌、呼び掛けの歌、ようやったの歌(2014年3月1−20日

    3月17日
             奇蹟一途の歌五首

   そもそもや生存率小妻信子かくダイナミック奇蹟一途よ(備考:生存率6%と2010年12月1日手術前に、執刀医渡辺徹ドクターに言はれし延原信子、三年四か月ダイナミックに生きたる、これ総て奇跡なりたり)

   ノーちゃんよお恵みやなあ生かさるるそう思わんかほんまそうやなあ   (備考:ある日の妹背会話)

   思たんや父さんとこへ帰ったら何とか成るん違うかなとぞ
   (備考:大手術のベッド上にて思ひし信子の決意これなり)

   それでぞや何とか成りしかノーちゃんよ成ったも成ったおお成りやがな
   父さんよ今一番の仕合わせやそれは何でや皆やってくれる

           箴言うたなりの歌三首

   生涯の終わりに臨み妻信子箴言うたと思ひたる如   (備考:うたーー心の真情なり)

   かくあればこのうた伝ふ本出さん後々までも語り伝へん

   華やぎは人生の果て来るなり妻の命はいざやこれから
(備考:「どやノーちゃん、本出るで」「有名なるのん(暫し沈黙の間置きてから)好ーきーやーねーん」)


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 この度、延原さんからお送りいただいた写真で、御夫妻の寫された大事なもう一枚が残っています。特別に最後に残して置いたというべきでしょうか。



 この写真には、まったく驚きました。勿論、はじめてお目にかかるものです。最初「あれ! これは結婚式の写真?」と思いましたが、写真の裏を見ると、「甥・佐々木周生君・洋子さん御結婚媒酌の際 於千里阪急ホテル、1997年12月」とあります。

 おふたりのご結婚は確か、あの激動の時代に(1969年でしたか)、ふつう執り行われる結婚式とは違って、レストランか喫茶店のような場所において、友人たちを招いての「結婚シンポ」のような、たいへん珍しい斬新なかたちのものだったということは耳にしていましたから、ここに収める記念写真は、想像もできなかったもので、驚いたのでした。

(上記のことについて、4月20日付けの先生のメールで、次の補正のことばがありましたので、ここに挿入いたします。うかつなことでした。
 「我らの結婚式は豊中教会にていたしました。披露宴をシンポジウムにて、集会室で致しました。工藤弘志君(同志社宗教部)に司会をお願いしました。説教は森里忠生牧師(豊中教会)、司式は種谷俊一先生(尼崎教会)でした(拙著『あなたに』153頁参照)。」)

 当時わたしたちも、延原さんたちの面白い実験に刺激をうけて、神戸の下町での新しい生活を始めたばかりで、ゴム工場のロール場の雑役で汗を流していたころです。おふたりの御結婚のあと、新生活を始められた挨拶状の御葉書を頂いておりました。

 このお写真は、御夫妻の結婚家庭30年近い時の、ご立派な晴れ姿です。一生のうちには、一度くらいは、こういう晴れ姿の記念写真を残すのも、よろしいですね。

 裏書きに「媒酌の際」とありますが、先生はこれまで幾組かの「媒酌」をされたり、結婚式などを執り行われたこともおありですが、現在でも地元の結婚式場での司式の奉仕を続けておられます。

 延原先生はこの方面でもなかなかの人気の様で、お声も大きく歌唱力も抜群ですから、ピッタリですね。


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 今日は午前中天候もよろしいようですので、ちょこっと烏原貯水池まで出かけて、新緑を愛で、鳥たちの声を聴きながら、お昼弁当を食べてこようかな、と思っています。

 このところ、近くの路地裏をぶらり散歩をするのが面白くなっていますが、神戸には、すぐそこに山が、あり海があり、運河などもあって、嬉しいですね。

 今回の写真は、久しぶりの「須磨の海」を収めます。