延原時行歌集「命輝く」(第812回)(「比美乃江公園・世界遺産:五箇山菅沼合掌集落」)
延原時行歌集「命輝く」(第812回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(170−6)
笑みや豊かにの歌、妻の命の書の歌、昨日今朝癒し四相の歌、恩寵一閃の歌、悟りたりの歌、今朝の祈りの歌、昨夜妹背会話の歌、漸くにの歌、御業進めんの歌、高橋クリニックにての歌、復活の歌、基あり華やぎ豊かの歌、昨日驚きぬの歌、歌の歌、人の歌、念校の歌(2014年1月11−20日)
1月17日
復活の歌五首
ーー我が「キリスト教神髄」描写(これ一般には知られず。キリスト教一般には愛のヒューマニズム競争主義と解さるるなり:その原典ヨハネ21・15「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか。」[聖書協会訳、新共同訳も同様]これ世紀の誤訳なり。正しくは「ヨハネの子シモンよ、あなたはこれらの物[船や網、ペテロの旧き仕事に関わるいっさいの物、ひいては宇宙の諸多性]よりも、わたし[復活者=宇宙そのもの=]を愛するか。」なり。かく復活者愛する時、御声聴くなり「わが羊を養へ」15節、16節、17節。かくて、我らキリストの慈悲の風の「ともかぜ」として生くるなり。キリストの復活未だ理解されたることなき以上、この国に未だキリスト教なし。あるのは愛のヒューマニズム競争主義なり。耳あるものは聴くべし)
復活や二重の原理とりてあり原栄光の華やぎにイエス
(備考:ヨハネ17・5「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今御前にわたしを輝かせて下さい。」に込められたるは、①原栄光の華やぎと②それを祈るイエスなり:このイエス祈り聴かれ甦るなり。ここに二重原理出でしなり。復活は一方だけで語り尽くすこと能はず。必ず二重なり)
(備考:第一コリント15・12−13「さて、キリストは死人の中から甦ったのだと宣べ伝えられているのに、あなた方の中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストも甦らなかったであろう。」ここに二重原理明らかなり:①原栄光の華やぎとしての復活原理と②それの充足としてのキリストの実際的甦りなり。②はさらに詳述さるるなり:「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中から甦ったのである。」[第一コリント15・20]と)
我が内に我死キリスト生くるなり言ひしパウロぞ華やぎを生く
(備考:ガラテヤ2・20「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。」にあるは、①原栄光の華やぎ+パウロなり)
原事実華やぎてこそ命なり主の祈りかく窮まれる哉
(備考:原事実としての原事実我ら知ること能はず。必ず主イエス祈り給ひてこそ、原事実華やぐなり――先ず、イエスにおいて、次に、我らにおいて。かくて「現在」喜びなり)
全宇宙復活体と見ゆるなりかくて一人も永久に滅びず
(備考:ヨハネ3・16「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」)
今回は富山県氷見市に新しく整備された「比美乃公園」でしばらく富山湾を眺め、知る人ぞ知る「海鮮問屋:柿の屋」(地元でも人気スポット)で昼食をいただき、旅の最後となる「世界遺産・五箇山:菅沼合掌集落」の雪景色までの数枚をUPします。
途中バスの車中で眺めただけですが、わたしの好きな作家・詩人の堀田善衛の故郷が「富山県射水郡伏木町」、現在の高岡市であったことなど、あれこれと思いめぐらしながら・・・・
堀田の生家は伏木港にあって、江戸時代から代々廻船問屋を営む旧家でしたが、海運業の近代化と共に経営は悪化して家業は破綻、彼の父は政治家に転身して伏木町長を経て、終戦時には県会議長を務めていた・・・。堀田は1918年(大正7年)生まれ、1998年(平成10年)80歳の生涯でした。
まず、新しく整備されたばかりの「比美乃公園」から富山湾を望む景色から「海鮮問屋・柿の屋」さんまで。
さてここからしばらく、「東海北陸自動車道」でしたかを走って、雪深い「五箇山・菅沼合掌集落」へ。