延原時行歌集「命輝く」(第2744回)(あらためて「スズラン」「アンズ」など)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2744回)

  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

   4月29日

      御友姿と原受肉の歌七首
     (*我が「原受肉」の提唱のままに聖書を読む試みなり)

 一 地底から温もりや来る(原受肉)父から聴きて御友伝ふや
   (備考:『ピリピ』2・6、『ヨハネ』15・15、熟読参照)

 二 汝が笑みや生涯の際溢れてや絶後いや増す御友いませば
   (備考:復唱)

 三 我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す
   (備考:復唱:深き低み=「実存の底」を表す滝沢の用語;底=「原受肉」を表す延原の用語。「飛翔」は復活を表す延原の表記にして、人と御友の共甦りなり)

 三 岸辺にぞ御友立ちます弟子達やしかと知らずやされど立ちます
   (備考:『ヨハネ』21・4、熟読参照)

 四 御友のや飛翔の姿(原受肉還栄の時)我ら運びつ

 五 この時や原受肉ぞや御祈りに華やぎてこそ御父御許に
   (備考:『ヨハネ』17・5、熟読参照:「①父よ、②世が造られる前に、③わたしがみそばで持っていた栄光で、④今み前に⑤わたしを輝かせて下さい。」①=イエスにとりて「隠れたる処=原受肉」にいます方なり);②+④=「神と共にロゴスありき」(pros ton theon)の原受肉態;③+⑤=復活の二義性、即ち、「インマヌエル(pros ton theon)の原受肉」と御友(イエス)の復活なり:前者の意義では、「復活する」なるが、後者の意義では、「復活させらるる」事なり。これに準じて我ら人も、「復活させらるる」なり。とにかく、「原受肉」を想定しないでは、「受肉」だけでは、聖書は読めないものなり。これは、従来の新約学に基づくキリスト教の一面性を暴露するものなり。ということは、従来のキリスト教理解は全貌開示以前の不完全なる理解に過ぎぬといふ事なり。ちなみに、以前も言ひしが、この聖書個所新約中最重要なり)

 六 朝まだき独り御友や祈り給ふ「隠れし所」(原受肉のや)御声聴きつつ
   (備考:『マタイ』6・6、熟読参照:「隠れし所」は聖書表記のことば;(原受肉のや)は我が神学的訳注)

 七 よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな父ぞ育てし秘義の法(=原受肉
   (備考:『マタイ』6・28-30、熟読参照:芭蕉俳諧は、「原受肉」に立脚せる芸術なり。このことは、日本の仏教的哲理およびそれに基づく芸術は、「原受肉」の立場から見れば、キリスト教的なりとも見れるものなり。我が『ホワイトヘッドと西田哲学――仏教的キリスト教哲学の構想』はこの点、重要文献なりと評価さるるなり。聞くところによれば、韓国は一面「キリスト教国」と見做さるるも、「受肉」主義的立場のみから、然るなり。「原受肉」の秘められたる「仏教的キリスト教哲学の日本」から見れば、両国の文化的差異は当然なり。よろしく理解さるるべきなり)





日毎にいま「さんさん花壇」のクレマチスジャスミンなど華やいできました。

花壇に植えていた樹がぐんぐん伸びるので、ジャスミンを守るために、枝を二本切り落としました。

昨日は「賀川豊彦と神戸」の準備を兼ねて、今から8年前の「賀川豊彦献身100年」の記念の年に、奇しくも「武内勝」と「吉田源治郎」(いづれも賀川と歩みを共にした傑物ふたり)の所蔵資料(「お宝」)の閲読を許されて「記念事業オフィシャルサイト」(現在も伴武澄氏のご厚意でネット公開中 http://k100.yorozubp.com/ )に長期連載した膨大なドキュメントをプリントアップする作業を始めました。この機会に、あらためてじっくりと読みなおしてみることにしました。

本日の写真は、まず住宅の中庭に小さくひそと可憐に咲くスズランから・・・

アンズの実もだんだんと大きくなってきました。

終りに、ふじ棚の藤の花と桜などをスズメたちと共に収めます。