延原時行歌集「命輝く」(第2635回)(ぶらり散歩――久しぶりにキャナルプロムナード・一遍さん・清盛塚)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2635回)

  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

<新発見=御友神学比例中項論>の進展、さらに一歩!

    1月10日

         イマヌエルの原受肉の歌十二首

 一 滝沢の「インマヌエルの原事実」混濁やあり明晰にせむ
   (備考:問題。イ(ン)マヌエルの原義は、「ロゴスは神と共[pros ton theon]なりき」(『ヨハネ』1・1・第二項)に明白なり。これを「太初のロゴス」(同第一項)から導き出すは、滝沢の手法なるも、正当ならず)
 二 何故にイマヌエル原事実ぞやそも「神と共」原受肉せし
   (備考:提唱。「イ(ン)マヌエルの原事実」なる言表は、「神と共なるロゴス」の「太初のロゴス」における原受肉としてのみ、知的に承認され得るものなり。その際、「太初のロゴス」を哲学的に「実存の根底」ないし「人間の原点」と、滝沢のするように、言い換えることも容認さるるなり)
 三 この世のや原事実とは太初言イマヌエルのぞ原義なし
   (備考:前提。『ヨハネ』1・1・第一項にある「太初のロゴス」を「この世の原事実」と取ることは正当なるも、「太初のロゴス」そのものには「イ(ン)マヌエル」(神共にいます)の原義決して明記されておらぬ事記憶すべきなり。この点、滝沢の論述常に不明なり。これ誠に不可解なる事実なり)
 四 滝沢のイマヌエルのぞ原事実二つ一つに併せしやこそ
   (備考:誤謬。ヨハネのロゴス論の内第二項を第一項に併せたるも、その事一切明記あるなし。「第二項を第一項に併せたる様態」を我「原受肉」と明確化なすなり。それ、我が歌の主旨なり)
 五 二つをば一つに成さむにはイマヌエルとや原事実純
   (備考:条件。「イマヌエル」も「原事実」も合わせ論じる前に。純なる概念なるべし!この条件、滝沢の「インマヌエルの原事実」論には、満たされておらざるなり。不可解なり)
 六 然るにや原事実なるイマヌエルそこに純なる資質あるなし
   (備考:資質の欠損。何故「原事実」概念にあらかじめ(太初のロゴス概念にはなき)「イ(ン)マヌエル」(神我らと共に在す)を入れて論じるのか。これ、論者の恣意的含意にや非ざるか。甚だ不可解なり)
 七 イマヌエル原事実たらむにや純なるそれや原受肉成す
   (備考:結語。これ驚くべき我が発見なり)
 八 イマヌエル原事実とは原受肉「共」/(と) 「友」のぞ比例中項
   (備考:新学説=御友神学比例中項論、此処に胚胎す)
 九 幼子の安き眠りや誠にや「原受肉」上讃美されたり
   (備考:『ルカ』2・12−14、熟読参照)
 十 「共」/ (と)「友」「インマヌエルの源」や「原受肉上」「受肉御友」よ
 十一 かくしてや「源飛翔」「底省察」「ともよみがえり」変貌のうた
   (備考:新著『御友神学変貌のうたーー良寛ドストエフスキーホワイトヘッド、わが短歌神学日記II』の構想、かくて①「原飛翔」(良寛の「散る紅葉」の表象なすもの)、②「底省察」(ドストエフスキーの「原状況」の反省の中からの「超越と愛」の人間本性の現出)、③ホワイトヘッドの言ふ「ともあらはれ」(”its Unity of Appearance,” AI, 295)に我ら変貌のうた三態を伺うことに相成るなり。その初めに、滝沢克己の「インマヌエルの原事実」の批判的練磨から、「原受肉」の発見を中枢とする、「共」/ 「友」の御友神学ヴィジョンを徹見なすこと肝要なり)
 十二 それにせよ原事実がや原受肉驚くべしや人生基盤




昨日の「ぶらり散歩」は、少し遠出をしました。「十日えびす」でごった返す「兵庫駅」をこえて、15分ほどのところに美しい「キャナルプロムナード」があります。

数年前の「清盛ブーム」の時は、清盛塚のありこのあたりはイベント会場となって、観光客でにぎわいました。この場所に兵庫県の初代の公館が復元される予定になっています。

清盛塚のすぐ近くには「一遍さん」の廟所があります。

上は「午後のぶらり散歩」ですが、下は「午前のぶらり散歩」のものです。