延原時行歌集「命輝く」(第2614回)(兵庫運河・サッカー場あたり)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2614回)
  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    12月20日

            悠然との歌五首

 一 悠然と船旅道中友よりぞご論評ありお礼返すや
   (備考:バイオエシックスの権威木村利人先生ご夫妻より地球一周のクルーズよりメール御芳書12月15日付あり、深謝無尽も:「延原時行先生 いつも「風の便り」をどうも有り難うございます。「この真理『Creativityの神秘』学明む事やなくしてやなし」など、大変に意義深い創作表現に教えられております。
 実は、ただいま家内ともども、地球一周のクルーズで横浜発、上海経由でSingaporeに向かっています。アフリカ、中南米、南極、イースター島などを訪れ3月下旬の帰国予定です。
 宇宙衛星によるインターネットの送受信環境があまり良くないので困っておりますが、とりあえず御礼のメールを洋上からお送り申し上げます。
主に在って、心からなる感謝を込めて。
木村利人・木村恵子」
我がご返信12月15日付なり:「木村利人先生、御令室様 ご遠方をご旅行中、つたない我が短歌神学日記にお目を止めていただき恐縮に存じます。心より厚くお礼申し上げます。
 ご指摘の点は、父なる神に関わる神学的認識は、形而上学的認識(ホワイトヘッド有機体の哲学の場合は、なぜ無自性なるCreativityから出発しながらそのCreativityが“Creativity is the universal of universals characterizing ultimate matter of fact.” [PR, 21]というように、究極的事態の「性格付け」になるのか、という問題意識)を前提にしなければ、出てくることができない、という不可能性を抱えている、という難点であります。

 ① おそらく、この難点は、「天にまします我らの父よ、願わくば御名を崇めさせ給え」という主の祈りの成立の理解に関わって、解かれなくてはならないものでございましょう。
 ② そこで、私は、「天にまします」を形而上学的究極者の提示と、ます、理解致します。西田哲学流に申しますと、「天に於いて在る」我らの父、と言い換えることができます。
 ③ そして「於いて在る」を「至誠である」と(私の至誠心の神学の立場から)理解致します。
 ④ そうしますと、どうしても「天」を「Creativityが性格付けを成す究極者」と言い換える事が、ホワイトヘッド学からは、想定せねばなりません。
 ⑤ これだけの用意があって初めて、父なる神に関する神学的言説に入ってゆくことができる、と考えるわけです。
 ⑥ この考え方は、重要なことに、父なる神を「Creativityに至誠なる御方」と考える立場に導きます。
 ⑦ それだけのことが言えるならば、次に、「汝らの天の父が全きが如く汝らも全かれ」(『マタイ』5・48)というイエス(私の言い方では御友)の命法の理解が初めて可能になります。
 ⑧ これがキリスト教の一番基本的なcore theologyだと思われます。
 ⑨ そうしますと、神論は、暴力的な絶対者ではなく、「至誠者として絶対である方」として想定されます。
 ⑩ こうした神論からは、キリスト教絶対主義によるように、原爆投下正当論を導出するわけにはいきません。


 どうぞ、御無事に善きご旅行をお楽しみになられます様に!

 右、お礼方々
 草々不一
 IXIA!
 延原時行」
 二 神問題我が歌からや解かれ得る示して誠欣快至極
 三 創作用そも究極事性(さが)成すや無自性なるに大悲事(じ)に寄す
   (備考:復唱)
 四 核問題もしかしたらば神問題解くや発生源(みなもと)を欠く
   (備考:と言ふことや、核投下は、軍略論だけでは動力を欠き、西洋キリスト教に本来的な「キリスト教絶対主義」という精神的ないし神学的「動力」あってこそ可能なりし殺人行為なり、と言ふ事なり。然らば、キリスト教絶対主義を神学的に解析為すならば、兵器問題は別として、原爆投下決定問題に関する限り、源は解き明かさるるなりーーすなわち、核投下は至誠なる御神への反逆なり、と。今日まで、広島・長崎の二例のあと、原爆投下無きは何故か? 「キリスト教絶対主義」による審判思想(「神に代わって裁く」といふ政治神学)ないしそれと同等の思想が、核軍略と共に、明示的にまだ登場しておらざる故なり。ここに我が、新しき歌に込めたる形而上学により、「天にまします我らの父」神学の新解釈を提示したるや、神論による「核投下」の是認は途絶したるなり。人びと「核問題」は「軍略問題」なりと思いなすも、これ虚妄の論なり。しからず、これ、誤れる神学問題なり!「我らの父」をまず「天にまします」に込められたる形而上学的前提、即ち「創神秘」(Creativity as the ultimate, although it is without a character of its own)への至誠なる御方として、御友の命法に従って、認識する時、「核投下」は思想的に不可能にして、「核時代」は維持不能なるなり。耳ある人は聴くべし!)
 五 此度の書「平安ありて平和なる」出でて誠や核時代なし


    12月20日―2

             祈れの歌三首

 一 核時代天にまします父の御名崇めて祈れ去らせたまへと
 二 一言の祈り言葉も添えずして人の難事を見捨てるな君
 三 原栄(もとさかえ)恩師信ぜよ述ぶるやも御友祈るや華やがせ父
   (備考:『ヨハネ』17・5、滝沢克己『純粋神人学序説――物と人と』創言社、1988年、272頁、熟読参照。もしも原本的な事実にして、それが如何なるものであれ、自己充足なすものなりとなすは、祈りなき世界の精神また論理なり。御友祈り給ふ。この世の事実、それが如何なるものであれ、自己充足なすと信ずるは、汎神論Pantheismの立場なり。この世如何にも不完全にして救済されおらずされど救済祈求するは、万有在神論Panentheismの世界観なり。人の信の状態御神の御前にて「問ふ」は神学なり。我が神学は御友神学なり。御友、御神から聴きしこと、即ち、その神学び、一切を我らに、「友よ」と呼びかけ教へ給ふこと、これ御友神学にして、我が発案にあらず。御友神学、尊し)





上の写真は、昨日の午前中の市場への買い物を兼ねたぶらり散歩で撮ったものです。近くの公園で空を見上げると、まだお月さんがぼんやりと・・・

文庫本の初校ゲラを念入りにチェックして、レターパックライトで投函を済ませました。再校も念校もしないという出版社は珍しいことかもしれませんが、しっかりとした仕事をしていただけるものと期待しています。

こうしてひと段落したところで、もう一台のパソコンがいよいよ動かなくなって買い替えを余儀なくされて、チャリンコに乗って行きつけの電気店へ・・・・。

思案の末に手ごろなノートパソコンを買い求めて、戻ってからのセットアップが大変で・・・本日も引き続いて四苦八苦です・・・。

パソコンはよくトラブルが発生して困りますが、この二代目のパソコンが不調になるといけません。わたしにとってはいま、パソコンなしでは仕事になりませんので、しっかりと整えておかねばなりません。これから、午前中、頑張ってみます。

次の写真は、チャリンコで電気店への行き帰りの景色です。風のない穏やかな気候で、なんだか春霞のような景色で・・・キャナルタウン・兵庫運河・サッカー場などです。