延原時行歌集「命輝く」(第2608回)(アンズとサクラの紅葉葉)

              
  延原時行歌集「命輝く」(第2608回)
  「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    12月14日

            朝夢にの歌十首

 一 朝夢に粛然たるや人姿後で気が付くノーちゃんやんか
   (備考:えへへ、そやねん。有難うね、父さん)
 二 人姿天地(あめつち)の事(じ)をなす事をしみじみと我悟りにけりや
   (備考:事=一々の存在者、衆生。普通の人間学、今生学にしかすぎず。天地の事、全くこれとは趣を異になすを我悟れり)
 三 美しき和服姿のその人や粛然の気を漂はせつつ
 四 声掛くるまでもなくぞやお互ひに知る者同士思ひつありぬ
 五 創作用そも究極事性(さが)成すや無自性なるに大悲事(じ)に寄す
   (備考:復唱。この歌、天地(あめつち)の事(じ)としての人姿描きぬ。今生の姿のみの人にはあらで。この点、ホ氏が「相互関係」御友の姿に併せて、天に飛翔し地に還る人姿描きし、宇宙論的キリスト論展開せしに合致す。PR, 351、参照。現存のキリスト教神学では、『ヨハネ』21・15の「世紀の誤訳」に立脚する故に、今生の人間学キリスト教ヒューマニズムの救済論を加味したるのみ。従ひて、天地の事の救済論には未だ達せず。使徒パウロこれには「単なる望み」と言及せり。『第一コリント』15・19、熟読参照。「真の望み=復活の希望」には非ざる故なり)
 六 大悲のや事に寄すの気や感じつつ我夢の中人影に添ふ
   (備考:この歌、人今生の事(じ)超ゆるも「天地(あめつち)の事(じ)」なるを詠はむとせり)
 七 そこはかと今生超ゆる縁(えにし)の気漂ふ事を我守りたり
 八 恰もやお能の中の人の如人影やあり粛然たるや
   (備考:お能=復活芸術なりとは、我が確信なり。凡百のキリスト教思想に勝る。『ヨハネ』21・15につき、これを「この人たちのするよりも我を愛するか。」と訳せる日本協会訳、新共同訳に立脚せる「キリスト教信仰なるもの」、お能の水準に達せず。「これらの物(注。船や網、ペテロの旧き漁業の生業、それが具象する「宇宙の諸多性」)よりも《我》(「アブラハムの生まれ出づるより先に在る《我=宇宙そのもの、宇宙の全一性》」を愛するか。」(拙訳)が本来の聖書の立場なり。この立場、我「天地の事」示すものと呼ぶ。詳しくは、拙著『復活の省察[上巻]―妻と歌う:生くるとは深き淵より共々に甦ること喜びてこそ』新潟・考古堂書店、2014年10月刊、参照)
 九 幾年や重ねるともや今生の望み棄てぬや「キリスト教」よ
 十 己がや信じてもなき「復活」を述べて基教や己恥じぬか
   (備考:もっとも「キリスト教」は己たちがその実践にて造るものと誤認したるも。これFallacy of Misplaced Faithfulness 「誤認せる信仰の誤謬」と呼ぶべきものなり。ここに、「キリスト教」、必然的に、社会運動教なり)


   12月14日―2

           観つつ喜ぶの歌五首

 一 恐らくや幾度詠へどひとがたや復活の信ことりとも言はず
 二 恐らくや今生のぞや「単なるの望み」絶へてや「誰も逝去」か
 三 しかれども我朝夢に人姿粛然たるを観つつ喜ぶ
 四 宇宙のぞ全景なるや神々し今生ごとき曇天非ず
 五 「創作用そも」の歌をぞ恵まれし我や喜悦や言ふ言葉なし