延原時行歌集「命輝く」(第2246回)(私たちの住宅の花壇、ツクツクホーシ、広場からみた私たちの住宅など)

            

  延原時行歌集「命輝く」(第2246回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(224−2)朝の思ひの歌、横心と縦心の歌、誠のやの歌、原爆とエコ神学の歌、驚くやの歌、命歌の歌、復活やの歌、よくもまあの歌,ホ氏がぞやの歌、宇宙にぞの歌、信の歌、これだけで佳しの歌、今宵こその歌、もしもぞやの歌、歓び先行の歌、万物再編の歌、一驚の歌、入歓喜の歌、暑しともの歌(2015年8月1日〜10日)。

      〇(8月2日)横心と縦心の歌十首

   御復活我妻と共信ずこそ往くや嬉しや広大宇宙

   この宇宙真宗呼びてお浄土ぞ御復活とぞ我や名付けむ

   近代の基教貧しや横心復活見へず社会教なり(備考:故にぞヨハネ21・15の邦訳これなり:「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上にわたしを愛するか。」聖書協会1955年改訳;「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」新共同訳)

   されどもや最微者にぞやなせしやは我になせしと御友声聴く

   社会教この声聴きて沈思すや御復活のぞ縦心知らむ

   これ正に変貌の時来れるや日ノ本の人縦心知れ

   縦心御復活のぞ心なり「これら物より我愛するか」(備考:私訳。これら物=ペテロ旧来の人生に関わる舟、網、漁業一般、延いては宇宙諸多性なり)

   一切を横心にて見るならば絶後笑み増し摩訶不思議なり

   我妻や絶後笑み増し示せるは御復活のぞ縦心なり

   御友のぞ縦心知る人やこそ痛し果敢無し去り入歓喜(備考:入歓喜=「わたしと一緒の喜んで下さい。」ルカ15・6,9,32)

        誠のやの歌八首

   誠のや話し言ふもの縦心遂に交して笑み溢れ往く

   如何に汝横話をぞ続くとも縦心のぞなくば詮無し

   縦心縦心とぞ結びてや一つ心となりて主に逢ふ

   御友にぞ在りて歓喜の縦心妹背共々一つ心よ

   何が我楽しきやとて我妻と縦心とぞ縦心燃ゆ

   箴言を作りて復唱なすうちに一つ心ぞ主に燃へにけり

   延々と横話をぞ続くとも縦話逸することぞなかれ友方

   縦心御復活にぞ祝さるる思ひ出一切天父にて在り   (備考:なあ、ノーちゃん。そう、父さん。嬉しい嬉しい)


       ♯              ♯

今朝も上の歌(8月2日)に加えて延原さんの「今日の歌」を収めます。
上の歌も今日の歌もわたしには新しい「朝の歌」「朝の言葉」です。

      〇(8月29日)書の機嫌伺ふの歌十首

   昨日やジュンク堂にぞ赴きて我らが書籍機嫌伺ふ

   復活書三ヶ所にてや機嫌よし良寛書もや二ヶ所にてあり

   どうもぞや当今書物時代とぞクロスせるもの好まるる如   (備考:『永続敗戦論』の如し)

   小島屋で天へぎ啜り考ふや次著の趣向も出でにけりかも

   知的なる切込みありて書は佳しと思はるるぞや主題時代に

   主題にぞ切込みてもや時代には言及なき書面白からず

   安倍談話意外に人気好しとぞや立読み本に教へられしも

   イランとぞ仲直りなす米国や何を狙ふやオイルガス核?

   深夜にぞメールありたり英文稿興味示さるオンライン誌や(備考:我がクレアモント学会ペーパー”Divine Ecozoics and Whitehead's Adventure or Resurrection Metaphysics in Tandem with Ryokan"なり)

   時代とは面白きもの我が強き主張出だせば話進むや

       神御友学の歌
       ーー「滝沢原事実論」を超へて三十首

   神人の不可分なるの原事実不可分空に神人至誠ぞ

   不可分に神人至誠存在論いまだ価値論出でぬその前(備考:大乗仏教存在論の境位を「空即縁起」と言ふなり。これ神も物(人)も含むなり)

   問題はこの存在論の境位にや御神至誠自覚なるやと
(備考:これ価値論の現出なり。①不可分=空に御神も人(物)も至誠なるほか存在すること能はずなるを、存在論的至誠言ふなり。②この存在論的至誠の境位に対して自覚なすを、自覚的至誠と我言ふなり。自覚的至誠より価値論始まるなり)

   されどもや我ら人はぞ自覚的至誠示さず無明なりけり(備考:神も人も空に対して至誠なるほかあらざる存在論的至誠――仏教にてや、神も人(物)も一切が「空即縁起」の法則に従ひてほか在ること得ざるがこれなりーーがありたる上にて、これを自覚なせること肝要なるに、人自覚なさず、これ無明なり)

   かくしてぞ神人不可同成立す神至誠なり我ら無明ぞ   (備考:これ御父の境涯示すものなり)

   然るにや御神我らに至誠なれ声かけ給ふ不可逆や成る

   御神の不可逆の声誠にや空より出ずる神示す御子

   神示す御子とはつまり御友なり御父より聴き我らに伝ふ
   (備考:マタイ5・48、ヨハネ15・15、熟読参照)

   御父より聴きてやなべて我らにぞ伝へつつこそ友よと呼ばる
   (備考:恩寵摂理なり)

   不可逆やげにや御友の事にして空至誠なる御父の御声

   かく見れば不可分や空神至誠人と不可同不可逆御友(備考:①宇宙の存在論の次元にて神も人も空即ち不可分に至誠なり。②「不可分」神の属性にあらず、神も人もそれに至誠なるほか存在できぬ実在なり。③己がかくあることによってしか存在できぬ「存在論的至誠」をそれとして自覚なすこと、これ「自覚的ないし態度的至誠」なり。この次元において神人「不可同」なり:神至誠にして我ら無自覚無明なる故なり。④されど、御神「汝至誠たれ』と呼びかけ給ふ。これ「不可逆の恩寵」なり。⑤不可逆の恩寵にてあり給ふ御方御父なるも、そのことをしかと見て我らに告げ給ふ御方「御友」なり)   

   恩師のぞインマヌエルの原事実三相省察御友に至る   (備考:三相とは、不可分不可同不可逆なり)

   恩師はや長年バルト「イマヌエル」イエスに在りて成れる批判す(備考:バルトはインマヌエルの原事実はナザレのイエスの出現における永遠のロゴスの受肉によって初めて生起したものの如く言ふも、誤りなり、実は、「永遠のロゴス」イエスに先行せる「インマヌエル』なり。これ「インマヌエルの原事実」となり、とは、恩師生涯の御主張なりき)

   されどこれ神根底の存在と御友生成混同せるや(備考:恩師に起きては、さりながら、「存在」次元と「生成」次元の混同あり)

   神根底存在論の深みより空無自性と仏教教ふ
(備考:神根底に「空無自性」ありてこれに神至誠なり給ふことから、存在から生成への移行冒険始まりたり。恩師に於いてはこれなし:もともと「不可同」を神の属性と取り給ふゆえなり)

   空至誠神も人もや存在中未だ生成現れずして

   空至誠成すや間髪容れずして本覚の神顕れ給ふ

   仏教やこの境位言ふ阿弥陀方便法身価値根源ぞ

   我ら人存在論的至誠をぞ与えらるるに覚りなしぞや

   御神や不可同越へて我らにぞ至誠なれやと呼びかけ給ふ

   これはしも御神誠不可逆の御恩寵なり御友体現   (備考:御友御父を体現す。「我と父とは一つなり。」)

   原事実存在論の次元より如何に生成出で来れるや

   この問ひに恩師答へず何故ならば原初不可分空と見ぬ故

   不可分を空と見てこそ御神の至誠存在覚るや見ゆる

   かく見へて初めて我ら無明にぞ汝至誠たれ御声出ず聴く

   御声はぞ神人不可同越へてぞや至誠なれやと御友切々

   これはしも御友不可逆慈悲の声有難きかな有難きかな

   恩師そも神人学に中間底(史的形態)含まぬとぞや述べし不明も
   (備考:『純粋神人学序説』272頁、参照)

   含むやは潜在的と現実的両つあるなり孰れも可なり

   存在の次元よりして生成へ冒険せるや神御友学

      〇(8月30日)成るの歌四首

   恩師はや存在生成混同す原事実在り成るへと冒険(備考:冒険とは、聖書的表現にてや、「ケノーシス」(遜り)なり:ビリピ・6−11、熟読参照)

   その機微を描きたる人ホ氏なるよ実在冒険共現象へと(備考:”In this Supreme Adventure, the Reality which the Adventure transmutes into its Unity of Appearance, requires the real occasions of the advancing world each claiming its due share of attention." [AI, 295])

   バルトはや受肉(die Menschwerdung)の成るに打ち震ふ滝沢激高「イマヌエル在り」
(備考:カール・バルトの最も感動せし受肉の音信を、滝沢最も嫌ひ、攻撃点となせり。されど、彼の立脚せし「インマヌエルの原事実」が間違ひなりしに非ず。原事実なる神人不可分の内の「不可分」に目を凝らし、そこに「空」を見極めざりしことに間違ひありたり。何となれば、我の詠ひ示せし如く、其処から「成る」まで偉大なる冒険ありしなれば)

   「成る」にぞや込められたるや恩寵ぞ御友切々父を語りぬ   (備考:ヨハネ15・15、熟読参照)

        面白しの歌一首

   我妻の歌詠みゆくや面白し復活実在日毎明らむ

        手直しの歌二首

   朝毎に前夜作りし歌推敲なにごとも我手直しに活く

   恐らくや天国にてや今生や手直しありて華やぎの里








猛暑の夏は過ぎて、秋の到来です。

昨日は近くの広場で、私たちの住宅の遠望を撮りました。このアングルは初めてです。

過日のラジオ放送はご近所の方々もお聞きになっていたらしく、あらためてまた「ツクツクホーシ」の話に花が咲きました。

目の前の樹にツクツクホーシが数匹とまって大きな声で鳴いていましたので、それもパチリ・・・あの透き通った蝉の姿は、この写真ではうまく撮れていませんが・・・。


あいかわらずですが、本日も猫ちゃんの昼寝と花壇と・・・