延原時行歌集「命輝く」(第2177回)(昨日の花壇とネコと・・・)
延原時行歌集「命輝く」(第2177回)
「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(216−4)為すは人主体御神の歌、摂理謝すの歌、今日の日やの歌、朝餉の歌、妻幸せの歌、微笑の歌、主の祈り二重の歌、愛の歌、不実教と御友飛翔の歌、「友よ」嬉しやの歌、今朝恵まれし御友神学の歌、称名の歌、道伝ふ歌の歌、宇宙開眼の歌、神学びの歌、任す日や佳しの歌、御自らの恵み歌、御神日々の歌、変貌論の時代歌、主の促しやの歌、本作る父さんやっての歌、悟りたりの歌(2015年5月11日〜20日)
5月15日
称名の歌十首
称名や御友三段進み往くIXIA!(イクイアーメン)歓喜の調べ
「友よ」呼び「何ぞ我を?」と叫びては御友内住「イマヌエル」飛翔(備考:ヨハネ15・15:「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。私の父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」→マルコ15・34:「そして、三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」→ヨハネ17・24:「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所(注。父子ひらけの場所=ヨハネ1・1・第二項:「言は神と共に(pros ton theon)あった。」=)に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さってわたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。」)
御友はぞ「友よ」と呼ぶや「何ぞ我?」叫びて飛翔「イマヌエル」かな(備考:「何ぞ我?」の十字架上の叫びにて御友我が根底に「我」成り給ふ。彼の叫びは我の叫びなり。彼が見捨てられしは我が見捨てられしなり。受肉の真実は、一般的に神の御子「人と成り給ふ」尊き真実[Menschwerdung]なるも、さらに立ち入りて、神の御子「我と成り給う」根底的真実[Ichwerdung]なり。かくて、御友真に我が根底の御友なり。それ故、彼の欣求聴きて御父御友甦らし給ふ時、御友「岸辺の主」=ヨハネ21・4=として「我」と共飛翔さるるなり。生くるとは深き淵より共々に甦ること喜びてこそ 我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す)
低みがぞ如何に深くやありけるもその底飛翔イマヌエルなり
イマヌエル「言」「神とぞ共なる」に容れらるるゆえ成るや嬉しや
イマヌエル「太初の言」「神と共」なリ給ふ故誠在りける
それはしも飛翔ありての真実ぞ「太初の言」のみにてや無し
(備考:「太初の言」とは「世の始」の事にして、換言すれば、「世の根底」なり。根底に「神と共」(インマヌエル)の意義生ずるは、ひとえに「言」「神と共なり(pros ton theon)」(ヨハネ1・1・第二項)に裏打ちさるる故にして、この消息の解明は恩師純粋神人学にはなきなり。「太初の言」のみの注視にてなるは、in-der-Welt-sein (Heidegger)の真実の見極めにして、そこに「父子ひらけ」への飛翔・移行なきなり。これにては、インマヌエル学の窮極省察未だなし)
称名や誠喜び此処に在りインマヌエルぞ称ふ嬉しや
道伝ふ歌の歌五首
称名や宇宙の交互御友をぞ三段称ふ歓びの歌 (備考:三段とは、「受肉」「絶叫」「飛翔」なり)
「友よ」とぞ呼びかく御友「何ぞ我?」深まりて往く「父子ひらけ」まで(備考:「深まりて往く」すなわち十字架即非飛翔の逆理なり。この逆理宇宙の逆理なるをホ氏「交互関係」と言ふなり。我これをReciprocal Metaphysicsと言はん)
我や知る親鸞聖人和讃如短歌神学生(な)すや我が道
神学ぶ我が短歌をぞ作りてや心の歌に成すや道なり
これやこそ心の歌の調べにて御友呼ぶ声伝ふ道なり
♯ ♯
今朝も上の「5月15日」の歌に加えて、最新のメルマガ「風の便り」より「6月16日」より「6月18日」までの歌を収めます。ようやく米国の旅の数日分も含めて、ここに収まりました。
〇(6月16日)空/縁起の歌七首
一昨日新著エピローグ加筆せり恩師カブとぞメールなしてぞ
(備考:新著『「変貌論」の時代』の進境なり)
恩師カブクレアモントの大会議アドレスに宣ぶ「エコロジーズ相互依存」と (備考:Ecologies are interdependent.)
我や知る佛基対話に一昔前に論ぜし縁起再来
さらばぞや空即縁起全体や想起あれかしエコ運動中
我にとり空即縁起神ありて媒介なすや至誠の心
神空に至誠なるなりそれ故に万物にぞや至誠たれとぞ
此処に見ゆ万物至誠協働す神媒介に働けばこそ
(備考:この間の消息我「空/縁起」と書かん。「/」(スラッシュ)神なり:①神空に至誠なり;②空は空自らを空ず;③神は宇宙において我ら被造物に至誠心を喚起するを得、かつ現に喚起し給ふ唯一の御方なり、の三原理が介在しつつ、万物縁起するなり。これ我が仏教的キリスト教神学なり。重要なるは、④父の全きを見て、万物にその如く全かれ(マタイ5・48)と喚起する、交互的関係付けの役割を宇宙内にて帯びるは、御友なり。これ、新しき第四原理なり。ここに延原神学確立せり)
〇(6月17日)友方にの歌一首
友方にロスのチョコをば包みてや宛名書く我いそいそとこそ
〇(6月18日)驚きぬの歌三首
パウロ程驚きの人あらぬなり生前知らぬ復活主生く
(備考:「我もや生くるに非ず、基督我が内にありて生くるなり。」こそ彼の原理なり。復活の基督在りてパウロの教会成れり)
驚きぬクレアモントの会議のぞペーパー欲しや送れとの声 (備考:出版のためなり)
驚きぬ絶後笑み増す妻ありて本作りあり「父さんやって」
不安定な気候が続きます。やはり梅雨ですね。梅雨時は梅雨らしいのがいいのでしょう。
上の写真は、昨日の私たちの花壇です。道行くひとたちがよく立ち止まって眺めていかれます。時にはカメラを向けて花々を寫しておられます。
昨日は、ご近所のベトナムの御婦人方が三人、ひとしきり花壇の前で、花たちを愛でながら、楽しそうに語り合っておられて、見惚れてしまいました。お話の中身はまったくわかりませんが、花をやさしくさわりながらの花談義のように見受けました。いいですね!!
いまも花壇には、最後のアマリリスの赤い花が咲き、キキョウの花がまた新しい一輪を咲かせました。そしてアガパンサスが綺麗になってきました。
おまけに、スズメたちと猫たちと、さらに夏ミカンと梅たちも。