延原時行歌集「命輝く」(第2925回)(木枯らし1号と夕焼け)

              
    延原時行歌集「命輝く」(第2925回)

    「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
 今朝も先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    10月31日

           秋絶頂の歌十一首

 一 十月や収穫げにも多かりき創作用とや冒険二軸
   (備考:宇宙の基本原理、創作用と冒険なりと知りたるなり)

 二 「神共」のロゴス「太初」に原受肉原事実のや固定脱却  
   (備考:この度の我が思索の出発点や、恩師の「原事実」の固定化を脱却せむと、「原受肉」の発想に至りたるなり)

 三 原受肉創作用と冒険の二段動態我や悟るや
   (備考:原受肉に含まるるもの、ホ氏思想では「創作用」と「冒険」の二基軸と想到せり。前者は、形而上学的究極者なり。後者は、「究極者の現れの統一態」の促しなり。別言すれば、参与の姿なり)

 四 創作用そも究極事性(さが)成るや無自性なるに大悲事に寄す
   (備考:これ、拙著『平安ありて平和なる』の結語として詠みたる、わが短歌神学の傑作なり。ここに形而上学プロパーの原理を「創作用」と、「冒険」=形而上学への参与(Partaking)を「①無自性なるに、②大悲事に寄す」と分節したるなり。①=父なる神、②=御子・御友として、「創作用の原初的性格付け」(カブの言ふ①creativity as primordially characterized;②that which primordially characterizes creativity)に該当なすなり)

 五 前半や形而上学一般ぞ後半冒険「大悲事に寄す」

 六 かくてぞや無自性告ぐる父に聴き御友勇みて「友よ」と告ぐや
   (備考:「無自性告ぐる」は、無自性そのものではなく、その表現なり。『ヨハネ』15・15の言ふ、「父に聴く」の含蓄する消息なり。「御友勇みて『友よ』と告ぐや」は、我が御友神学の働きにして、「父に聴く」の発展なり)

 七 汝らの父全きや如くにや汝至誠なれ御友道往け
   (備考:『マタイ』5:48、熟読参照)

 八 我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す
   (備考:復唱。「底の底」は「原受肉」の事なり。「飛翔」とは、原受肉の参与(Partaking)なり。父への帰還の姿なり)

 九 遂にはや原受肉のや暁や御父に飛翔一切復活
   (備考:ホ氏では、冒険と呼ばるるなり。冒険は、二重性を帯びたるなり:《Its Unity of Appearance》(AI, 295)。これ、御子と我ら被造者の《あらわれ》(復活)を意味するなり)

 十 この宇宙満ち溢るるや絶後笑みもはや死もなく涙もなきぞ
   (備考:『黙示録』21・3-4、熟読参照。我が形而上学短歌の後半部「無自性なるに大悲事に寄す」の意味ここにあるなり)

 十一 宇宙のや笑み伝へむと妻と我御友と共に働かむ哉
   (備考:これ、生死を問はず伝道の課題なり)




昨日はfacebookでお友達になっているお方から、いまはむかし、山陰鳥取の田舎からはじめて京都に出てきて、同志社神学部の学生寮「壮図寮」で新しい生活を始めたときの写真を3枚、メールで送信していただきました。

この学生寮で過ごしたのは2年余りの短いあいだでしたが、上級生の延原先生との出合いはこの時が最初で、ここでの寮生活は、バイトにも追われる青春真っ最中の、不思議な愉快な思い出いっぱいの時でした。

神戸にも「木枯らし1号」が吹く中、ある用事があって、新長田までぶらり歩き・・・お昼は、いつもの「出雲・出石そば」のお店に入って・・・
「七十のお皿を食べた」という張り紙もあって・・・ここは人気のお店ですが・・・ビールもいただいて・・・・

10月締めくくりの今日は快晴です。お月さんもだんだん丸くなってきました。この季節は、日没も早くなり、5時ごろには、陽が沈んでいきます。

ベランダに出て、昨日の夕陽を眺めました。撮影順に並べてみます。