延原時行歌集「命輝く」(第3027回)(大著『哲学の喜び』脱稿の歌)

 延原時行歌集「命輝く」(第3027回)
「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も初めに先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。めでたし『大著脱稿の歌』!

○(5日)脱稿の歌:宇宙完成アーメン十六首
    (* 鳥飼先生 6/4, 2018 18:55)

一 遂に我が大著脱稿嬉しぞや哲学講義歌と合すや

二 何よりも嬉しき事や哲悦をロゴス論にて基礎付けし事

三 「創作用」原基なすなり哲悦や大悲事に寄す「神表現」ぞ

四 「創作用」空無の事ぞ至誠心神人尽くす神至誠喚ぶ

五 神至誠喚びて人にぞ「神表現」得しめ給ふや誠尊し

六 空に神至誠心ぞや有無や無しその事覚す御神麗し

七 空に人有無なく至誠尽くすやもその事覚す事ぞなきなり

八 それ故に神人不可同なるもやも神人受容不可逆の愛

九 宇宙にや遂に「共創」花咲くや不可分不可同不可逆の道

十 遂にぞや不可逆「共創」赦されしこの宇宙不死御友の里よ

十一 イエスぞや父に学びて「友よ」とぞ呼び掛けたるや基督の声

十二 イエスぞや基督なるや何故ならむ深き低みの底ぞ飛翔す

十三 一切を十字架にてや負ひ給ひ底まで落ちて赦します   (備考:《sese in profundum humiliare》!)

十四 かくてこそ「原事実のや新現在産み出す」ロゴスイマヌエルます

十五 神の国到来かくて歓喜のぞ御友「参与」の時祝ひたり  (備考:『マルコ』1・14-15、熟読参照。“Dialogues of ANW, 366”)

十六 イエスース、クリストス、いざイマヌエル、アーメン和すや宇宙完成

IXIA!
延原時行

[完]


昨日も新しい花が咲きました!


アジサイの花も奇麗ですね!

猫ちゃんも花々も・・・

延原時行歌集「命輝く」(第3026回)(新しく咲いたサボテンの花)

 延原時行歌集「命輝く」(第3026回)
「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も初めに先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

○(4日)人生と哲悦の歌七首
    (* 鳥飼先生 6/3, 2018 22:46)

一 人生は哲悦花を咲かせてや意味深長と言ふべきぞかし

二 創作用そも究極事性(さが)成すや無自性なるに大悲事に寄す  (備考:復唱。後段在りて、前段見ゆる)

三 我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す  (備考:復唱。前段在りて、後段や燦)

四 恩師はや絶対被決定Kontingenzなるやこそ神表現ぞ成せと喚びたまふ

五 花やしも咲くや大悲の事に寄すや笑み増し底ぞ飛翔のすがた

六 哲悦の花咲かせなば人生の真実誠出づることなし

七 我独り遊びに耽る歌作りありてこそなれ誠輝く
IXIA!
延原時行


今朝も、新しく咲いたサボテンの花を添えさせていただきます。


そして、いつものように、仲良く昼寝にやすらぐ猫たちを収めます。

昨日は『賀川豊彦と神戸―部落問題の解決と番町出合いの家』の草稿を仕上げて、本日、公益財団法人・賀川事業団雲柱社「出版助成事務局」へゆうメールで送ります。二度目のチャレンジです。


今朝も快晴! どっさりと洗濯を済ませました。


延原時行歌集「命輝く」(第3025回)(青空と新緑)

 延原時行歌集「命輝く」(第3025回)
「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も初めに先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

○(3日)滝沢純粋神人論の歌(六)イエス即基督讃歌十二首
    (* 鳥飼先生 6/2, 2018 19:16)

一 イエスはぞ基督なりと言ふはぞや「神我らとや《共》なり」とぞや
  (備考:拙著『対話論神学の地平―ー私の巡礼のなかから』(横浜・春風社、2006年)、第七章「在家キリスト教提唱――我が巡礼の原視点から」、参照)

二 「神共」のロゴス「太初」に内住し原事実ぞや新現在産む

三 かくてぞや哲悦花と咲くやしもイエス生まるもかくの如しぞ

四 我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す   (備考:復唱)

五 人誰も絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す

六 これ何故か十字架の主や遜り深き低みの底と飛翔す

七 かくてぞや御友共にぞいまし給ふイエス誠や基督にます

八 イエスはや父より御友神学び「友よ」と我ら召すや嬉しや  (備考:「父より御友神学び」とは「父栄光を子に賜ふ」に御友原型学びし故なり)

九 恩師がや『告白』中に「である」にぞ「虚無の誘惑」感ずは何故か  (備考:「われわれがこの道を最後まで歩むとき、「イエスはキリストである」という信仰告白の「である」がもともと何を意味するのか、そこにいかに大いなる事実にかなった真理が存在するのか、われわれにとっては、しかしそこにいかに危険な虚無の誘惑がひそんでいるのか、ということをわれわれは明らかに理解するであろう。」『純粋神人学序説』275頁、参照』)

十 それはしも「深き低み」の底飛翔見ずしてやこそ御友知らざる

十一 イエスはぞ基督なりと言ふゆえは「神我らのや《友》ぞ」こそなり
   (備考:拙著『良寛「風の歌」にちなんでーー御友神学の省察』(新潟・考古堂、2016年)、参照)

十二 新時代御友神学なるゆえに基督信仰深しや深し
   (備考:その点の洞察ありてホ氏主著の末尾傑作「御友神学」完成したり。天と地の往還在りて宇宙共創完成す。それなくしてや、単一の「深き低み」の原事実、誠にや興味半減。「深き低み」の底ぞ飛翔すなりてこそ、行ってみたい御許なり。)

IXIA!
延原時行


昨日は、晴れ渡った澄み切った青空を見上げながら、近くの市場に買い物を兼ねて「ぶらり散歩」・・・


滝沢克己協会」の事務局から『滝沢克己生誕110年記念論集』企画に寄せられた14篇の玉稿が届けられ、すべての論文を印刷して読み始めました。これから編集会議がスタートします。「滝沢克己没後35年」の記念でもあります。


延原時行歌集「命輝く」(第3024回)(再びサボテン、そしてビワとゴブ)

 延原時行歌集「命輝く」(第3024回)
「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も初めに先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

○(2日)滝沢純粋神人論反省の歌(五)教会外神認識論十首
    (* 鳥飼先生 6/1, 2018 22:32)

一 正しくや「深き低み」の底なるや仏教にてや「真如海」とす

二 かつて見し星野元豊切り込みぬ原事実の底空なるぞやと  (備考:星野氏滝沢の『著作集7』に収めたる『仏教とキリスト教』(京都・法蔵館、昭和48年刊、460-461頁、参照)の「解説」中で単純なる原事実論を破り、その底に「総てを包む」「絶対無」「絶対空」とも言ふべき真如海をもう一つ根柢において指摘なしたり。これ画期的なる業績なり。神人の第一義の接触を「①自分自身の処にも、②そのままに現在する永遠の事実としても」認めつつ、第二義の接触はこの場合、「救済の行としてのイエス」あるいは機法一体[仏凡一体]を考える、と言ふ)

三 これ恩師心広くも記したる「教会外の神認識」ぞ  (備考:「この道の上で彼は福音書そのものにおいて、全体を正しく理解するために不可欠な箇所を多数見出すであろうし、それらの箇所はそれにもかかわらず「イエス・キリストの教会の絶対的権威」の故に、以前には完全に無視されたか、あるいはあまりにも軽がるしく取りあつかわれた、ということを見出すであろう。同時にまた他方では、彼は教会の壁の外において、単に根底無き、暗い淵を見るのではなく、何よりも先ず唯一で真実な、絶対に厳しい、無条件に開かれた、汲みつくしがたく実り多い、インマヌエルなる神の空間をみるであろう。その時彼はまた、他の宗教や哲学においても、唯一で普遍的なインマヌエルなる神の力によって、この世界において非常に異質で隔たっているにもかかわらず、真にキリスト教的な言葉と直接に美しく共鳴し合う言葉を、無心に期待するということをどうして止めることができようか。カール・バルト自身もその晩年においてのみならず、根本的にはすでにわたしがお会いした初期の時代にそうしたのであった。」(『純粋神人学序説』274-275頁)、参照)

四 我見るやこの認識やさらにぞや基教内部の認識刷新

五 げにや我「天にまします御父」ぞ「真如海にてます御父」と呼ぶ  (備考:これ、「天」=「空」=「真如海」=「神性」なるのであって、「天にまします我らの父よ」とは、形而上学的究極者に至誠なる御父への、呼びかけを意味すなり。その意味では、先に論じたる、「深き低み」の底ぞ飛翔す、の含蓄と同様なり)

六 かく呼びつ「至誠心のぞ神学」を提言せしや不肖我なり
  (備考:何度も紹介せし如く、この提言や、第一原理「空に神至誠なり」;第二原理「空は空自らを空ず」;第三原理「宇宙において神は被造者に至誠心を喚起なすことが出来、現に喚起なし給ふ唯一の御方なり」を含み、第一原理「空神至誠」は第三原理「神至誠喚ぶ」と逆理を構成なすなり。その事、恩師我への「書簡」にて承認し給へり)

七 最晩年御書簡ありて答へます恩師御慈愛心より謝す

八 空に神至誠捧ぐや神至誠喚ぶや尊し逆理深甚

九 宇宙にぞ逆理深甚空自空最奥にして先端なるや

十 それをしも「原受肉」のぞ動態と我述べんかな哲悦の果て  (備考:「神共」ロゴスから発し「太初」に孕む「原受肉」や空即縁起のはたらきあるも、遂に「原事実の新現在の産み出し」ありて哲悦や咲く。それ、ホ氏言ふところの「参与」《Partaking》 即ち「受肉結実」なり。その歓喜、哲悦と呼ぶなり。嬉し嬉しや)

昨日もご近所のお宅のサボテン鑑賞。サボテンの花は一日だけのものと思っていましたが、昨日のサボテンの花は前日に咲いた花だそうです。御主人のお話では、サボテンは天気の良い日は一日で散り、雨模様の日には二日間咲いているのだそうです。したがって、この花は二日目のものでした。二日目でも見事なものです!

公園では、まだアゲハチョウが舞っていました。

昨日も住宅のビワとご近所のお宅のゴブをいただいて・・・

次は、中庭の猫ちゃん・・・

終りに、アジサイの花など・・・

延原時行歌集「命輝く」(第3023回)(ビワとサクランボ、そしてゴブ)

 延原時行歌集「命輝く」(第3023回)
「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

今朝も初めに先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

〇(6月1日)滝沢純粋神人論反省の歌(四)底飛翔二十七首
      (* 鳥飼先生 5/31, 2018 13:51)

一 誠にや日ノ本人士寡黙なり汝何をぞ信ずるやそも

二 我やしも地球人士にこの問を内面巡り突きつけたしや

三 日ノ本の教会にてもこの問を突きつけて見よ反応鈍し

四 人々は社会哲学(習慣)生くるやも心の信条明らかにせず

五 これこそや本書で我が哲悦と呼びて明む努めしわざよ

六 このわざや良寛の語を借りてぞや我一人遊びと呼びにけりかも  (備考:本書の根本的立場、「一人遊び」なること、最後の重要点にいたりて煌きたるを我喜ぶ)

七 御神の御前に立ちて己が信根底までや尋ねたる末

八 ありありと見えたるやこそ哲悦や恩師滝沢語録辿りて

九 恩師はや問の場をぞや極限す「深き低み」ぞその名なりけり

十 ただ一つ御師の問はぬ根城あり「深き低み」の底ぞこれなり  (備考:「今や彼は、たとえ最も聖なるものであるにせよ、あの形態とインマヌエスの原事実、太初の唯一の言と混同する(区別なしに同一化する)ことはできないのであり、それゆえに一方ではあの聖なるものを、他方では人間の「原罪」を、妄想的・宗教的に絶対化することはできないのである。インマヌエルの原事実にまったく単純に規定されて、彼自身の身は深い低みに置かれており、そこに与えられた聖なる限界の背後に歩み出てさらに深く下降することはできないし、またしようともしないのである。そしてそのような、あらゆる比較をこえて絶対的に低みにある存在として、彼は言い表し得ない感謝と恥じらいとをもって、自分を高く位置づけることはまったく無意味であり、また自分自身の安心と活動のために、どこかに聖なる場所を捜し求める必要もない、ということを知るのである。今や彼には新しい道が開かれており、与えられた形態を不安なしに見ることができ、それが事実どうあるのかを判断できるのである。」『純粋神人学序説』274頁)

十一 我書きぬ最重要の一首なりそもその主題恩師禁断

十二 我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す   (備考:復唱)

十三 これ誠我が最重要「歌」なるや妻絶するも笑み飛翔すと

十四 この歌を一大歓喜胸震へ作りし我や新生したり

十五 我世のぞ深みの「底」の飛翔共御友世界の全域まみゆ   (備考:「底」=御友)

十六 これ程ぞ恩師決別明瞭な我が世界歌またと在らざる 

十七 滝沢の哲学世界原事実元にせるやも「深き低み」ぞ

十八 其処に無し「深き低み」の底飛翔彼の世界や深き「現世」

十九 それ故に彼そも知らずルター観し十字架の主地獄落ちたる

二十 若き日に『詩編講義』ぞ耽読す其処に在り「深淵に落つ」   (備考:「地獄落ち」=《sese in profundum humiliare》

二十一 かくあればありありと我知りぬこそ「深き低み」の底我が主

二十二 我妻が前夜式をば終へし夜棺あけて見し口まろき妻
   (備考:2014年3月12日の事なり。口まろき=称名なり)

二十三 生き生きと称名なすの我妻や笑み増しゆたか御友臨在

二十四 滝沢の「深き低み」を底に抜け笑み増す妻と御友飛翔す

二十五 我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す   (備考:復唱嬉し)

二十六 我やしもこの歌と共胸震へ一切の底御友共御許飛翔す
   (備考:その時の我が形而上学恩師超ゆるや)

二十七 而してやホ氏主著末尾刻みたる御友哲学共創完成   (備考:”In the fourth phase, the creative action completes itself, For the perfected actuality passes back into the temporal world, and qualifies this world so that each temporal actuality includes it as an immediate fact of relevant experience. For the kingdom of heaven is with us today. The action of the fourth phase is the love of God for the world. It is the particular providence for particular occasions. What is done in the world is transformed into a reality in heaven, and the reality in heaven passes back into the world. By reason of this reciprocal relation, the love in the world passes into the love of heaven, and floods back again into the world.In this sense, God is the great companion—the fellow-sufferer who understands.” [PR, 351])

IXIA!
延原時行 


昨日のぶらり散歩では、ビワとサクランボ、そしてゴブを味見しました。みな初物ばかり! ビワは住宅の敷地の中に植えたもの、サクランボはご近所の公園の大きな桜の樹、ゴブはあるお宅の前の道端で・・・

昨日も見事なサボテンの花が華やいでいました。

終りに、猫とアマリリスなど・・・


延原時行歌集「命輝く」(第3022回)(はじめてのヴェトナム料理)

 延原時行歌集「命輝く」(第3022回)
「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」
今朝も初めに先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

○(31日)滝沢純粋神人学反省の歌(三)希望論即懺悔論即共創論
     (* 鳥飼先生 5/30, 2018 15:46)

一 恩師のや「神表現」の哲悦や絶対偶有Kontingenz裏打ちす

二 それ故に誠逆理や神喚ぶや「至誠なれ」との声聴こゆ

三 この声す汝己の生涯に「生ける神をぞ表現すべし」

四 この声の響く限りや恩師言ふ「苛酷の中で希望に満つる」   (備考:『純粋神人学序説』273頁)

五 而してや御友に還り「根源を」学ぶことをぞ綴るや恩師
  (備考:「しかしまた、一人の人間が人間として正しく生きるということはいかに無限に困難であるか、ということを最も鋭く感じている。しかも、生来彼に固有の存在根拠を見ようとしないこと、一言でいえば、彼は完全に罪人であるということ、生きることにおいても思惟することにおいても、いつも繰り返し誤りを犯すということをも感じている。それだから、彼が聖書やイエスの言葉や行為の導きのおかげで、彼にとっては、この歴史的形態は不必要にならない。むしろ反対にその時はじめて、彼はいかなる決定的なことをこういう形態に負うているのか、彼にとって未来にとってもこういう形態はいかに不可欠であるか、ということを根源的に学ぶのである。」(同頁))

六 我もぞや恩師に和して己のや至らなさをぞ懺悔し奉る

七 かかる者なるにもやホ氏激励す「共創こそや人の尊厳」  (備考:「宇宙における共同創造者としての人間の真の運命こそ、人間の尊厳であり、崇高さなのです。」『ホワイトヘッドの対話:1934-1947』ルシアン・プライス編、岡田雅勝・藤本隆志訳、東京・みすず書房、1980年、531頁)

八 かくてぞや我が哲悦や誠にや慚愧と祈り満腔ままに

IXIA!
延原時行   


昨夜は「三水会」(毎月第三水曜日夜の寄り合い)が三宮の地下街にある「ホイアン」で初めてのヴェトナム料理をいただきました。店主御夫妻のお話も面白くお味もなかなかのもの・・・。ヴェトナムの美酒も・・・

昨日もご近所のお宅のサボテンが美しい花を咲かせていました。

終りにビワの実など・・・

延原時行歌集「命輝く」(第3021回)(久しぶりに名古屋へ)

 延原時行歌集「命輝く」(第3021回)
「復活の家出発進行―感謝無限の旅一歩一歩」

27日から29日まで名古屋に出掛けていてブログUPをお休みしましたので、先生から届いたメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」と共にまとめて収めさせていただきます。

○(28日)ロゴスとロゴスの歌(四)原受肉論十首
     (* 鳥飼先生 5/27, 2018 15:25)

一 汝らの父至誠なる如くにや汝らも至誠なれやとイエス宣ふ  (備考:『マタイ』5・48、私訳なり。我が持論はや、聖書聖句に形而上学成句なるもの多し。これ、その代表的一例なり。その含意たるや、「汝らの在天の父が全き」が如く、即ち、父の「在天」の存在に至誠なる如く、なり。我が解釈では、「在天の存在」=「三位一体的場所に在る存在」なり。そこで初めて、「かかる場所存在」に至誠、といふ尊厳態が問題にされていることが了解さるるなり。さう解さざれば、何が問題とされているかが皆目明らめられず)

二 汝らの父「天=空」に至誠なりその如く汝地に至誠たれ  (備考:前半は、存在論的記述なり。後半は、(先の「存在論的記述」を含んだ上で)地の住人=受肉者としての自覚論的叙述なり)

三 至誠はや空に神のや在り方Seinsweiseぞもしさうならばロゴス深しや

四 深しとや「神共」ロゴス両極の父子の位置こそ含めてやそも

五 かくてぞや「神共」ロゴス恩師言ふ「太初」内住深くや深し

六 「神共」や神の内部の「原受肉」「太初」に孕むロゴス神人
  (備考:我々は「神・言=原受肉」→「太初=神・人=内住」の根本的プロセスに注目せねばならぬ。これに続きて展開するや「原事実の新現在の産み出し」なり。而してそこに咲くもの哲悦なり)

七 「原事実新現在の産み出し」にほのと咲くぞや哲悦嬉し

八 されどもや一人遊びの出来ぬ人他者の思想に依るほかぞなき  (備考:他者の思想に依存乃至はそれを盗用なす場合、これ内面的束縛なり、外面的に非ず。さういふ人は、そもそも未だ哲悦心に咲かざる存在なり)

九 これ誠米朝会談途絶せし真の理由もそこに存すや
  (備考:【ワシントン共同】《トランプ米大統領は25日、金正恩朝鮮労働党委員長に中止を通告した米朝首脳会談について北朝鮮と「生産的な協議」を続けているとして「もし実現すれば(当初の予定と)同じ6月12日にシンガポールで開くことになりそうだ」とツイッターで表明した。1日で終わらない可能性もあるとしている。米メディアは途絶えていた米朝の連絡チャンネルが再会されたと報道。会談の再設定へ歩み寄る兆候が出てきた。
 トランプ氏は24日、北朝鮮の敵対的な言動を理由に首脳会談の中止を発表したばかり。しかし25日になって北朝鮮との協議を続けていることを明らかにした。北朝鮮が会談を「切実に必要」とする談話を出したことや、再会された接触などを通じた北朝鮮の反応を見て、会談の再検討に前向きになったとみられる。
 しかし「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化」を北朝鮮が受け入れるかは予断を許さない。米朝間の不信感は根強く、会談実現には米朝間の信頼醸成も課題となる。
 米メディアのよると、サンダース大統領報道官は25日「首脳会談を6月12日に開くなら、われわれは準備できる」と記者団に語り「大統領は結果を出せるなら会談を開きたいと思っている」と説明。米側が求める完全な非核化の実現が条件との認識を強調した》『新潟日報』2018年5月27日付)

十 人がぞや哲悦抱く幸せや地に至誠たる極みその事

IXIA!
延原時行

○(29日)滝沢純粋神人学反省の歌(一)御友論十二首
     (* 鳥飼先生 5/28, 2018 16:05)

一 恩師のや独自思想や「神人学」イエス束縛要らぬと窮む
  (備考:滝沢克己『純粋神人学序説』(福岡・創言社、1988年)272頁)

二 これありて初めて「太初ロゴス」にぞ《向かふ》と言ふや内面の吐露  (備考:而してや「神表現」の大思想明むや。同、272-273頁、参照。「それに対して、純粋な神人学は偶然的・一回的に与えられたナザレのイエスもしくは聖書という形態に助けられ導かれはするが、しかし束縛されはしない。むしろ、生ける道標としてのこの形態に導かれて、もっぱら道、真理、太初のロゴスに向かうのであり、バルトと共にいうならインマヌエルの原事実に、永遠に新たな、絶対的に不可分‣不可同・不可逆な神と人間の関係に向かうのである。したがって、神人学はその本来の内容として特殊的・史的な形態を内に持つことはできないし、ゆるされないし、また持とうとはしない。それは神人学が通俗の意味で「抽象的普遍的」に思弁するからなのではない。全く逆である。神人学があの絶対的に偶然的な、ただ生ける神ご自身によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存在に、かたく結びついているからなのであって、この規定された人間存在を離れては、いかなる特殊的、具体的にして史的な形態も、この世界には現実として存在できないのである。
 純粋に神人学的に考える人間は、したがって、自分自身を一つの存在者として知っている。この存在者は一方では、絶対的に偶然的であり、あらゆる歴史的形態を持った規定から自由であり、他方ではしかし、何よりもまず、そのようなもろもろの規定とは比較にならないほど厳しい、唯一の神の規定、すなわち人間は、まさしくはじめから終りまで、このような偶然的な存在者として自分自身の生涯において生ける神ご自身を表現すべきであるという、唯一の神の規定の下に立っているのである。このようなものとして人間は、たとえ苛酷な歴史的状況にあっても、たえず希望に満ちている。」

三 それ程にイエスの姿束縛ぞそれのみならず道標なるも

四 我や知るイエス父より聴きし事なべて弟子にぞ伝へ「友よ」と
  (備考;『ヨハネ』15・15、熟読参照)

五 「もはや我汝ら僕呼ばざるよ」我これを御友神学呼びたるやげに

六 御友はぞ神学びをや父よりぞ致し給ふや誠尊し

七 然る故我らを「友」と呼び給ふ尊き言葉父よりの事

八 即ちや父が元々御子たるの「栄光」與ふ僕視せざる   (備考:『ヨハネ』17・5、熟読参照)

九 誠にやこの事やしも「神共」《pros ton theon》と書かれし事ぞ御友根源

十 さればこそ御友神学父子にぞや根源ありて「友よ」と出づる

十一 何故に「イエス束縛」恐れしか恩師心情我分らぬや

IXIA!
延原時行

○(30日)滝沢純粋神人学反省の歌(二)「神表現」哲悦発見論十三首
     (* 鳥飼先生 5/29, 2018 18:53)

一 恩師のや「非束縛論」じっと読むこれ誠にや無明の記なり

二 イエスにや「束縛されず」書くや汝導き謝するげに本当か

三 この点の真偽のほどや確とせる「太初」論読む心得なるや

四 「太初」論《向かふ》と書くの筆致にや認識論の苦渋ありあり

五 苦渋中汝や徐々にぞ思索すや「神人学に史的核なし」

六 汝や見る絶対偶有Kontingenz在りて産む神ご自身の「表現点」ぞ  (備考:「滝沢書簡」、『純粋神人学序説』、272頁、熟読参照)

七 これやこそ「神ご自身の表現点」「規定されたる」人間存在!

八 それで汝これ初めのや「イエス」とや何の関係そもありたるや

九 見よそこに厳然として御友神史的のや「産み出し」直前いましたるにや

十 これ正に恩師哲悦ほのと咲く喜ばしきの時なりきげに

十一 げにもぞや一人遊びにふけりたる滝沢まみゆ「神人ロゴス」

十二 それにはや「神共」ロゴス自らや発し来給ふ「太初」直々  (備考:「ただ生ける神ご自身(=「神共」)によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存在(=「インマヌエルの神・人原事実」)に!)

十三 直々や一人遊びの世界なりこれ超えてぞや御友顕現  (備考:顕現とは、地上の受肉、イエスの宣教活動の事、ホワイトヘッドの言ふ「参与」《Partaking》 [Dialogues of ANW,
366]の事なり)

IXIA!
延原時行


明石公園の御濠で・・・



名古屋での「ぶらり散歩」で・・・・

名古屋で始まったといわれる「コメダ珈琲店」で・・